Ojisanが哲学する

哲学大好きなojisanが偉そうに人間や社会を語ります

勉強と学問について

http://www.ito-tomohide.com/entry/2015/12/12/234610

面白いブログを発見しました。

書籍でも有名な山口真由さんを暗に揶揄した内容だと思いますが、私も非常に納得しました。

山口さんには申し訳ないですが、大学に入っても「良い成績を取ろう」などと考えている人は、根本的に勉強と学問の違いが分かっていません。

高校までの学びは「勉強」です。

基本的には問と答が明確で、そのセットを理解しながら暗記していくという学習法です。

よく大学受験で「東大や京大の問題を解くためには高い思考力と考察力が必要である」などと問題分析をする予備校講師がいますが、こういった思考力や考察力も所詮「相対的に他の一般大学よりは必要」という程度の意味しかありません。

「解法のカラクリ」がすぐに見えにくいというだけで、「ヘーゲルをどう解釈するか」、「エネルギー問題をどう解決するか」といった学問的な問題や政治的な問題のように「人類の誰もがまだ答えを発見していない問題」を解きほぐそうというのとでは根本的に使う頭や思考回路が違います。

それに対して、大学に入ってからの勉強というのは、「学問」ですから、むしろ教授の言ってることを疑う位の姿勢で臨まないといけません。

ちょっと大げさに言えば、「優」がくるような答案しか書けないというのは、逆に学問的な素養がないとも言えます。

たしかに今の学部学生位のマインドセットだと、「学問をやりに大学に来ている」という方は少ないと思いますが、やはり理念的には大学は「学問の府」です。

山口さんなんかはどうも学問と勉強の違いがよくわかっていないんだと思います。

また、これは「法学部」という特殊性もあるのかもしれません。

法学部には弁護士と官僚という「学部と直結した職業」が文系にしては珍しくありますが、この弁護士と官僚の世界というのが呆れる位に権威主義的かつペーパーテスト至上主義的なのです。

「国家一種試験に何番で受かった」、「ロースクールではなく旧司法試験に受かった」というペーパーテストのパフォーマンスを「その人の知的能力」かのように語る傾向が法学部では非常に強いのです。

私はある程度以上先からは、ペーパーテストと根本的な思考力の間には何の相関もないと思っています。

 

大学入学以降の知的レベルを決めるのは、IQでもテストの点数でもなく「知的好奇心」と「徹底的に考える力」に尽きます。

 

どれだけ探求したいテーマを持っているか。

 

これが全てでしょう。

 

しかし、法学部には、ペーパーテストのスコアと能力に完全なる正の相関があると勘違いしてる人間がアホみたいにいます。

 

ただこれは「法学」(とりわけ実定法学)という学問の特殊性もあります。

法学は社会のルール(規範)を探求する学問ですから、どうしても権威的にならざるをえません。

ですから必然的に思考が権威的かつ前ならえ主義的になってしまうのでしょうか。

ちょっと話を前に戻しますが。

要は、大学の成績に拘るというのは、根本的に勉強と学問の違いが分かっていないのです。

そしてこれは勉強と学問という違い以上に、日本の小中高の教育に問題があると私は思っています。

日本の教科書にはFACTは山ほどありますが、それに対する深い理解や意義、「自分はそれについてどう考えるか」などが全く問われていません。

特に理系と違い文系に関してはかなり壊滅的と言っていいでしょう。

なぜならば、自然科学と違い人文社会科学は究極的には「自分はこう思う」、「人間や社会はこうあるべきだ」という規範的な学問だからです。

人文社会科学は、倫理学ではなくても、すべての分野が基本的には倫理学的です。

このように考えたときに、特に文系の人は高校と大学でまるで求められる能力や勉強法が違うということに愕然とするか、そもそもそれに気づかずに高校の勉強の延長線上のようにひたすら良い成績を取り続けるのでしょう。

私が引用したブログは非常に示唆的ですから、ぜひ一読されてください。









遺伝子の不都合な真実について

最近テレビに出ている東大生にイケメンや美女が多いのではないか?という林修の指摘があり、確かに私もテレビを見ながら同じことを思っていました。
要は、有り体に言うと、金持ちと美人が結婚するからこそ遺伝的に、「顔も良くて頭もいい子供」がどんどん有名大学に入っている、ということです。
ちょっと意地悪な言い方ですが、オンラインの格安予備校や奨学金等で教育格差を縮めようとしたところで、「焼け石に水」の感じは否めません。
お金持ちの子供が有名大学に行けるのは、教育投資をしてるからではありません。
そうではなく、そもそも我々の生きる知識情報社会でお金を稼ぐためには頭が要りますから、親が頭がいいのが子供に遺伝してるわけです。
一流大学の学生の親に金持ちが多いのは必然的な話です。
因果関係と相関関係を混同してはいけません。
そして、お金持ちはたいがい美人と結婚しますから、生まれてくる子供は才色兼備だったりするわけです。
嗚呼、悲しい哉。
社会はこのような「大貧民」のようなサイクルで回ってるわけですから、生まれた時に人生の可能性はかなりの程度決まってるわけですね。
政治家や社会科学系の研究者は、このような不都合な真実についてまずは正面から認める必要があると思います。
「機会の平等」なんて与えたところでむしろ遺伝レベルの格差がどんどんどんどん顕在化するだけですからね。
この不都合な真実を認めた上で「ではどうやって社会をデザインするか?」を考えないといけません。
「人間には無限の可能性がある」なんてフォークロアを前提にしていたらいつまでたってもとんちんかんな議論になってしまいますから。

人を不幸にするSNS

ここ20年位でどんどん日本人が生きづらくなってるような気がするんですが、経済的な問題はさておき、やはりSNSやネットの発達によって、「他人の生活」がリアルすぎるぐらいに目に見えるようになってしまったことが遠因にあると思います。
実は高度経済成長の時代も「一億総中流」なんてのは完全なる嘘で、ホントは不都合なことも格差もあったと思うんですよ。
ただ、人間は、それが目に入るのと目に入らないのとではかなり主観的な幸福感に対する影響が違うと思うのです。
それが今、有名人のブログや芸能人のSNSFacebookによる友達の近況などによって、「甘い汁を吸っている人のリアル生活」があまりにも普通の人の目に入るようになったせいで、多くの人は自分の生活に疑問を感じると思うのです。
サエコはこんなに良い生活をしている」、「女子アナがこんなに良い生活をしている」、「同級生の鈴木は家を建てたらしい」と知ってしまうからこそ不満や嫉妬が生まれるわけです。
日本人は特に嫉妬深いですが、そんな嫉妬深い日本人にきらびやかで良い生活を見せても炎上するだけですからね。
そしてどんどん一般の人は主観的に不幸になっていくわけです。
「知らない」幸福ってありますからね。

幸福について

「幸福について」

みんなそうだと思いますが、人間として生まれてきた以上、誰もが幸せになりたいと思って生きています。

しかしたまに私は思うのですが、「幸福について過剰に考える私」はあまり幸せな人間ではないのかもしれません。

人間は、水や空気のように当たり前のものをことさら意識することはありません。

実際私はそこまで不幸な人間でもないですが、本当に幸福であれば幸福について意識する必要もありません。

「結婚、興味ないし」なんて言っている女性は間違いなく結婚に死ぬほど興味があって死ぬほど結婚したい女性です。

「お金興味ないし」と言っている男性も同様です。

そのように考えると、「幸福について過剰に考えてしまう私」も実は幸福ではないからなのかもしれません。

西田幾多郎純粋経験のように、本当に幸福なら言語として「幸福」という言葉を持ち出す必要がないからです。

とは言え、戦争状態の人間が幸福について考えることができないように、幸福について考えられる事はやはり幸福だと言えなくもありません。

時間やお金にゆとりがあるからこそ幸福について考えることができるからです。

こんなことを体調が悪い中考えています。笑

そもそも論

「そもそも」

※今日もまだ体調が完治していないのでひたすら考えてひたすら投稿していますので、時間がある人は付き合ってください。笑

ちょっと前に読んだ本に「頭の良い人は『そもそも』で考えるし、『そもそも』が口癖だ」と書いてありました。

しかし、私はこの考え方は半分正しく半分間違っていると思っています。

なぜならば、あらゆる議論には「前提」があるからです。

例えば実定法学であれば、「人権」の存在は公理ように前提になっているのですから、そこで「そもそも人権という発想がおかしいのではないか」などと問うても意味がありません。

経済系の議論をしてる時に「そもそも拝金主義やGDP至上主義に問題がある」などと「そもそも論」で突っ込んでも逆にとんちんかんです。

「どうすれば日本のGDPが上がるか」を議論してる時に「そもそもGDP至上主義が問題だ」と指摘をしても何の意味もありません。

ある程度の有識者であれば、そんなことはわかって上で議論をしているからです。(本当にわかっていなそうな人がいるならマウンティングとして「そもそも」は使えますが)

「そもそも」と言うと議論を高みから見下ろしたようにさりげなくマウンティングできますが、実は頭のいい人はそんなこともわかった上で「前提」を疑うことなく議論していたりしますから、中途半端なレベルで「そもそも」を乱用をするのは典型的な「インテリぶったバカ」です。
例えばゴールドマン・サックスで働いてるような人を「拝金主義で資本主義の悪魔に魂を売った輩」などと批判するような人がいますが、私の友人でもそんな反論やあらゆることを全てわかった上で「あえてのっかかっている人」も多数います。
「そもそも」は頭が良く「見える」だけで、使い方を誤ると逆にカッコ悪いフレーズのような気がします。

好きな話や勝てる土俵

人と話していると、みなさん「自分が勝てる土俵」が大好きだとわかります。
そして皆さん(私含め)、無意識に勝てる土俵で他者から承認されることを強く渇望しています。
FBでもみなさん「言いたい情報」は開示しますが、「言いたくない情報」は開示しません。
Facebookで「港区在住者」が多いような気がしますが、なんて事はありません。
足立区に住んでいる人は「足立区在住」とは書きませんが、港区在住で「港区在住」と「書きたい」人が多いからです。笑
人は皆自分が承認されるように、自分が勝てる土俵のトピックを無意識に選んで話しています。
有名企業の人は会社の話をさりげなく会話に織り交ぜてきます。
名門大学の出身者で社会人として稼いでない人は学生時代の話をさりげなく強調したがります。
有名高出身で大学受験でミスった人は高校の話をやたらとしたがります。
教養のないお金持ちの企業家はお金儲けの話をやたらとします。
顔に自信のある女の子は女性の容姿についてあれこれと論評したがります。
私が他人と会話をする時に、よく耳をすまして注意しているのは「この人はどんな話が好きなんだろうか」という点です。
「好きな話」いうのは、大抵優越感を持っているか劣等感を持っているか、のいずれかです。
そんな私も認めたくはありませんが、心のどこかで社会人男性のカーストで勝てると思ってるからこそこの手の話が好きなのです。笑
人間心理とはそのようになっています。

ホモルーデンス

人間と生物を比較した時に生まれて来る「人間の特殊性」ってどこにあるんでしょうか。

人間とは何か?について先人たちは様々な考察をしてきました。

ホモサピエンス(リンネ)、ホモルーデンスホイジンガ)、ホモファーベル(ベルクソン)、シンボルを操る動物(カッシーラー)、社会的動物(アリストテレス)といった様々な人間理解があり、もちろんどれも全て正解だと思います。

高校の歴史の教科書では「火や道具の使用、直立ニ足歩行」という説明がなされます。

しかし、私がその中でも「なるほどな」と思ったのは、「ホモルーデンス」です。

ホイジンガーという哲学者がおそらく最初に言った言葉でしょうが、人間は「遊ぶ動物」です。

生物というレベルで考えたら、ここまで高度な文明を発達させる必要も芸術や学問を発達させる必要もなかったと思います。

それでも、神様のいたずらでしょうか、我々ヒトという生物は明らかに生存や生殖に必要がないことでも「遊んでみたい」という欲望を持ってしまいました。

ピラミッドなりベルサイユ宮殿なり、東京タワーなりといった建造物も源氏物語や百科全書のような学問や芸術も、別に生きるために不可欠ではありません。

しかし、ヒトは面白いことをせずにはいられないので我々はそういった「遊び」をすることにより文明や芸術を発達させてきました。

もちろん猫や犬も遊びますが、学問や芸術のようなシステマチックな遊びをすることはできません。

人間が「霊長類ヒト科」という生物にとどまらない顕著な特徴は、「遊び」なのではないかと私は思っています。

ホモルーデンスというネーミングはさすがです。