Ojisanが哲学する

哲学大好きなojisanが偉そうに人間や社会を語ります

アドバイスという名の自己満足

お久しぶりです。

誰もが認めたくない人間のいやらしい感情について分析して、グフグフとほくそ笑むことを日課としています(気持ち悪い)おじさんです。

こんにちは。

世の中には様々なアドバイスやアドバイス本があります。

しかし、よくよく考えてみると、アドバイスって結局アドバイスをする人間が優越感を感じるためのものでしかありません。

(誰もが認めたくない「不都合な真実」)

わたしが死ぬほど嫌いな言葉が

「お前のことを思って言ってるんだ」というやつです。

親が子供に言うならわかります。

しかし、いい大人が他人に対して「本当に良くなって欲しい」などと思うことがありえるのでしょうか?

そこまで良くなってほしいのなら、「じゃあ俺のために100万円くれよ」、「そのアドバイスに従って失敗したら責任とってお金払ってくれるの?」と言われてお金を素直に渡すのでしょうか?

どうせそこまで他人のことを想っているはずはないのです。

あくまで自分は痛まない前提で優越感を感じたいだけなのです。

私は、他人はあくまで他人だと思っています。

残念ながら家族ではないのです。

ですから、あまり無責任に人生相談や他人へのアドバイスなどしたくありません。

また、仮にするなら「自分がいい気分になりないから」という薄汚ない欲望を持っていることは重々自覚しています。

赤の他人がどうなろうが本当はどうでもいいはずなのです。

そんなに赤の他人を助けたいならユニセフに収入の半分ぐらいは募金したら良いのではないでしょうか?

それをせずに目の前の人間を助けたいのは自分のエゴでしかありません。

自分が気持ちよくなりたいから人助けをしたいのです。

私は人助けをしたい人や人にアドバイスをするような人にはまずこういった醜い人間心理を自覚して欲しい。

そして、「まぁ結果的に人の役に立ってるからいいか」と考えるのが「正しい思考回路」です。

私のこのブログもまずは「鋭いことを言って私が気持ちよくなりたい」という欲望がモチーフにあります。

ただ、まぁ結果的に面白いと思ってもらえたならそれはそれでいいかなと思っています。

純粋に読者のため、とかそんな胡散臭いことは決して言いません。

アドバイスや人助けとはこのように決して美しい話ではないのです。

これを自覚しつつ、アドバイスや人助けをしましょう、ええ。






人間社会がカオスな理由

完全に先程の続きです。

 

現代社会は自由や平等、人権、軍縮といったすばらしい旗印を掲げていますが、にもかかわらず現実の世界ではいじめやカースト、マウンティング、嫉妬、戦争、核実験といったおどろおどろしい行為がなくなることは決してありません。

 

そして私は今後もそれらがなくなる事はないと思っています。

私が世界平和や人間の幸福について懐疑的なのは、前の投稿でも述べたように、誰もが

自分が他人より上にいたい、そして他人に自分の優位性を認めさせひざまずかせたい。

決して他人が自分より上にてはいけない。上にいるなら何とかしてその優位性を崩してやりたい。決してその他人を認めてやるものか。

という醜い感情を持ってるからです。

人間社会から戦争がなくならないのも、根本の所ではこういった感情が遠因にあると思います。

我々人類は平等思想や人権思想といったものを社会を調整するツールとして編み出しました。

それはそれで一定程度奏功したかもしれませんが、やはりそれは生物としての生々しい感情に反しているのです。

そういった意味でそれらの思想にも一定の限界があります。

心の奥底で人間は誰もが、自分「だけ」が優れた人間でありたいと思っていますから。

憲法の平等思想を研究してる先生や経済学のリベラリズムを研究している先生も、絶対に研究者として自分の学説が他の学説より優れていると他人を認めさせたいんでしょう。

きれいごと抜きに言えば、学問的な探求ですら、結局自分の優位性を示すためにやっていると言えます。

どれだけ平等主義や共産主義を信奉している先生であっても(仮にその先生がものすごく学会で権威を持ってるとして)、やっぱりその先生は他の先生と同列だと気分が悪いと思うんです。

結局、自分「だけ」が優れていたいんですよ。

ザッカーバーグも、いろいろと美辞麗句を並べていますが、やはり自分だけが圧倒的に優秀だからこそ気持ちが良いはずなんです。

「困っている人を助けたい」とは言っても、心の奥底では「本当に並ばれたら困る」という醜い感情は絶対にあるはずです。(自分でもその醜い感情に気づいてないと思いますが)

なぜなら社会のあらゆる評価は相対評価だからです。

優秀じゃない人間がいるから自分の優秀さが際立つわけです。

残念ながら、

 

原理的に「『みんな』が自分『だけ』優れている」ということはあり得ません

 

から。

このように考えていくと、個人レベルで人は絶対に他人より上にいたいわけですから、国家レベルであっても世界平和などを訪れるはずもありません。

政治学などは主に文系の人間がやっていますが、こういった生物のレベルや社会心理学のレベルでものを考えていくと、不都合な真実が見えてくるでしょう。

嫌いな理由

誰もが認めたくない人間のいやらしい感情について分析して、グフグフとほくそ笑むことを日課としています加藤です。

こんにちは。

突然ですが私も皆さんも「嫌いな人」っているでしょう?

ちょっと考えてみて欲しいのですが、本当にそもそも論で「なぜ人は他人を嫌いになるのか」を分析していくと、究極的には、

自分が承認されないから嫌い

というあまり認めたくない真実に気づきます。

例えば私は女性の「あの子(別の子)嫌い」や「あの子嫌われている」は基本的にあまり信用していません。

なぜならば、上位概念を突き詰めていくと「承認されないから」嫌いなんですが、もうちょっと下位概念で考えると、要は

自分が欲しい物を手に入れていてうらやましいからムカつく。

というのが「あのコ嫌い」、「あいつ嫌い」の理由のほぼ9割です。

人間とは自分がかわいいもので、「あいつは自分が手に入れられないものを持ってるからむかつく」なんて決して認めません。

人間は嫉妬してる自分を覆い隠そうとして、「あいつ嫌い」となるのです。

「本当はあの人のこと羨ましくて嫉妬してるからむかつくんじゃない?」なんて人に聞いても、「いや、そうではなく彼(彼女)の人間性が・・」などと彼・彼女はおそらく答えるでしょうが、それは嫉妬している惨めな自分を正面から認めたくないからです。

結局相対的に相手が自分より上に行ってると自分が認められないから間接的に相手が嫌いなのです。

もっともらしい「嫌いな理由」は、あくまで後からとってつけたようなものです。(「あの人は、私が手に入れてないものを、全て手に入れているから悔しくて嫌い」なんて自分では絶対に認めません)

皆さんも手を胸に当ててみてください。

言い方は悪いですが、何らかの基準で自分より明らかに下の人を嫌いになることなんてまずないのです。

自分より下の人間が嫌いだとすると、それはおそらくその人が自分の優位性を正面から認めてくれないからです。

レストランやサービス業で、この上なく下から丁重にちやほやしてくれるような店がありますが、そんな人をわれわれは決して嫌いにはなりません。

究極的には、われわれは自分たちのことを褒めてくれる人間のことを決して嫌いにはなりません。

私は人間社会の根本原理は承認だと思っています。

経済学の貨幣のようなレベルで人間社会の原理はすべて承認に基づいてると思っています。

結局人間関係がドロドロしてるのも根本では誰もが以下のような感情を持ってるからです。

自分だけ人より上に行って他者から認められたい

絶対に他人が自分より上にいてはいけない

認めたくないでしょうが、人間は誰もがこういった感情を少なからず持っています。

私も非常に身勝手な感情を持ってまして。

自分は偉そうにしたい、高らかに社会について論じてすごい人間だと思われたい。

でも、人が偉そうにしていたり傲慢な態度をとっていたり、何かについて居丈高に論じているのを見るのは非常に不快です。笑

私は正直に認めてしまいますが、これが人間心理の醜さというものです。

結局マウンティング合戦というのも

「ほらほら俺はすごいだろ、認めてくれ」
「いや、決して認めないぞ」

という人間の醜さの発露ですから。

女性の会話のマウンティングなんて本当に典型的な「承認を求めた戦い」です。

女子アナが嫌われるのも、なんて事はありません。

ただ単に彼女たちが女性の欲しいものをすべて手に入れている人間だからです。

このように考えると、「あいつが嫌い」という感情は究極的に言えば、

自分よりあいつが上に行ってるから嫌い



自分より下のくせに自分のことを正面から認めないから嫌い

という点に集約されます。

人間とは醜いものです。





自分の感情を整理する

私が東京でさまよっている人たちと接しているといつも思うことなのですが、ほとんどの人は自分が何を求めているのか分かっていません。

「結局何がしたいの?」とわけのわからない転職や留学などを永遠と繰り返す人などはその典型です。

自分の感情を整理して、それを深く理解すれば、「自分は何をするべきか」が明確になります。

そして欲望的な感情は階層構造になっていることがほとんどなので、上位概念と下位概念を理解することが大切です。

例えば女性の「結婚したい」や新橋のサラリーマンの「留学したい」といった欲望は、本人たちも気づいていませんが、実はそれ自体が上位概念の欲望ではありません。(女性の結婚に関して、「いや、私は結婚して子供産むのが幸せだと思ってるから、それは純粋に求めてるものです」と反論する人もいるかもしれませんが、彼氏もいないのに比較的スペックの高い男性と結婚したがる丸の内OLなどはあくまで「承認」を求めているだけです。)

結局、なぜ留学したいのか、なぜ結婚したいのか、なぜタワマンに住みたいのか、なぜ英語を話すようになりたいのか、なぜロレックスが欲しいのかといった感情を整理していくと、「他人に承認されたいからやっている」という上位概念があることに気づきます。

私の持論ですが、究極的に人間の行動を整理すると

本当に単純に好きでやっているか
生物としての必要性に駆られてやっているか
他者からの承認を求めてやっているか

必ずこの3つのカテゴリーに属します。

もちろんこれらは背反ではないので、「本当に好きだし人に承認されるから」という場合もあるでしょうけど、概念的にこの3つは別のものです。

そして我々先進国の人間は食うに困ってることまずないので、仕事以外の行動はほぼすべて承認を求めているか好きでやっているかのいずれかです。(そして仕事が実は1番承認を求めてると言えるかもしれません)

逆に言えば、シンプルに整理してしまえばこれだけです。

そこで私は常に自分の行動を整理するようにしてます。

好きでやってるなら純粋にやればいい。

そして他者からの承認を求めているのであれば、この承認は本当に欲しい承認なのか?、リスクとコストをかけるには対する承認なのか?、他の承認で代替可能ではないか?と常に考えるようにしています。

このように考えていくと、自分の感情が非常にクリアに明確になります。

そして本当に自分の感情に向き合ってみると、「社会に貢献したい」、「留学して専門知識を身に付けたい」などというのは実は承認を求めたものであるということに気づきます。

私には非常に不思議ですが、世の中の人はただ単に承認を求めてるだけなのに、なぜかそこに高尚な理由をつけたがります。

有名大学の学生が一流企業にいきたかったり、留学したかったり、などというのも彼らはいろいろ美辞麗句を並べますが、ただ単に「それが社会で評価されているから承認されたい」というだけです。

社会人の男性が英語を話せるように努力しているのも、「仕事に必要だから」などと言いつつさらなる上位概念を探求していくとやはり「英語が話せたらかっこよくて承認されるから」ということになります。

なぜ俗物女性が港区に住みたがるかと言えば、ただ単に港区に住めば承認してもらえるからです。

現在の常識に囚われているだけです。

繰り返しますが、人間のほとんどの感情を整理していくと意外とシンプルになります。

自分の感情を整理して不毛なことにエネルギーを使わないことが大切です。

私もそうですがほとんどの人間は完全なる仙人や仏陀にはなれません。

しかし、その中でせめて「コストの高い承認」を求めて不毛なエネルギーを消耗することだけは幸せになる上で避けるべきです。




好きなことをする

先程の続きですが。

結局人間はどこまでいっても幸福な状態に慣れてしまいます。

また、どれだけ上のステージに行ってもその上のステージでまた戦わなければならないので、相対的な幸福感がどんどん上がっていく事はあり得ません。

そのように考えた時に、われわれはどのように生きれば幸せになるのでしょうか?

私の見解は非常にシンプルなのですが、自分なりに決めた「最低限のお金」は稼いだ上で、

できる範囲で好きなことをする

というのが最も幸福感を持続させるコツのような気がします。

家や車、子供の学校等、「一般的な意味」でどれだけ生活水準を上げても、所詮慣れてしまいますが、好きな事はいくらやっても飽きる事はありません。

逆に言えば慣れたり飽きてしまう事は、そこまで好きなことではないのです。

私は本を読んだり、文章を書いたりすることが、三度の食事とオナ二ーより好きですから、本を読みすぎて飽きてしまうとか、はありません。

サッカーを見たりやったりしても、疲れる事はあっても飽きる事はありません。

しかし、やはり、高級なレストランで食事をしたり、タワマンからの夜景を見たりするのは飽きてしまいました。

ですから一般的な意味での生活水準を上げても幸福度の上昇には限界があります。

一般的な意味での生活水準を上げることによる幸福度の上昇は、一次関数的ではなく対数的なのです。

ちなみに、「好きなこと」というと、では「好きなことを仕事にすればいいのか?」と疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、私は

別に好きなことを必ずしも仕事にしなくてもいい

と思っています。

そりゃ、サッカー選手や芸能人、シンガーになれたりする特別な才能を持ってる人は、好きなことを仕事にするべきかもしれませんが、私を始めほとんどの「普通の人」はやはりそんな簡単に好きなことを仕事にはできません。

ですから、私は

「仕事の楽しさ」等は相対的なもので十分

だと思っています。

ドブ掃除やコンビニの店員をやるよりは今の仕事のほうがいいな、とかですね。

そして余暇の時間に好きなことをやれば十分ではないでしょうか?

最終的に人生の価値は、

どれだけ好きなことをやれたか
人に愛されたり感謝されたりしたか
家族と有意義な時間を過ごせたか

こんなところで決まるのではないかと思っています。

ですから、前の投稿にあるような「相対評価のマウンティング」で勝つことによる幸福などは、あくまでおまけみたいなもんだと思った方がいいです。(そういったくだらない序列を全く無視したほうがいいかのように書いてあるビジネス書や自己啓発本がありますが、それは人間の本性を全く無視しているので「浅い」と思います。俗世間の序列で勝つこともそれなりに楽しいものですから。車や家、行きつけの店のような一般的なマウンティングは「人生のおまけ」だと考えるのが一番です。)

私は以上のように考えています。





幸福になるのは難しい

私はしばしば幸福について語っていますが、なかなか人間は幸福になれないようにできています。

それは2つの意味において。

1つは、人間とは「環境に慣れる動物」だからです。

たとえどんな状態になっても、人間は基本的にその状態に適応します。

ビルゲイツ孫正義が日々幸せかと言えば、おそらくそんなことはないのです。

彼らからしてみたら彼らの状態は自分にとっては普通ですからね。

私がよく持ち出すお話ですが、私や皆さん(のほとんど日本人であると仮定して)は、「蛇口からきれいな水が出る」ことや「屋根があるところで眠れる」ことに幸福を感じません。

なぜならば、それは「生まれた時からのデフォルト」だからです。

私の祖父は戦争に行った人間なので、「きれいな水が飲めることは幸せ」、「屋根がある所で眠れることは幸せ」と常々言っていましたが、当然我々がその感覚にリアリティーを持つ事はありません。

理解はできますがリアリティーはありません。

なぜならば、生まれてこの方「それが当たり前」だと思ってるからです。

ですから、たとえ現在の所得が400万円の人がその所得を2000万円にしたところで、最初の1年ぐらいは幸福感が持続しますが、いずれその幸福感はなくなります。

結局その状態に慣れてしまうからです。

(とは言え、幸福感は逓減していきますが、例えば生活保護やそれに近いレベルの生活をしてる人と年収2000万円くらいの生活をしている人の幸福感が全く同じはずもありません。

イメージしてるほど差がないだけで、やはり全く差がないわけではないですから。)

次に幸福になるのが難しいのは、人は「身近な他者」と比べるからです。

これも私がよく引用している例ですが、例えば今現在丸の内でOLをやっていて、東京カレンダー的な価値観のコミュニティにいたら、「年収1500万円の医者(や商社マン)」と結婚して東京港区のタワーマンションにでも住めば周りのOLたちにうらやましがられて非常に良い気分でしょう。

しかし、結婚してしまえば「ステージ」が変わります。

今度(無意識に)比べる対象は、「港区のタワーマンションに住んでいる妻」なのです。

残念ながら結婚できない負け犬女性や足立区に住んでいる女性と比較することなどありません。

男性の場合もそうです。

有名大学や有名企業に行けば圧倒的に勝者になれると思ったら間違いです。

 

結局そこの組織に行ったらそこの組織である事はデフォルトなわけですから、相対的にはみんな一緒なのです。

 

そしてその一緒の組織の中でもさらに細かい差をつけたがるのが人間です。

人間はどこまでいっても差をつけたい生き物なのです。

こういったお話をちょっと斜に構えて馬鹿にする人間がいます。

しかし、私は断言できますが、自分がちょっと離れたコミュニティーや階層にいると「そんなくだらないことで差をつけて馬鹿らしくない?」と達観したようなことが言えるのですが、人間は何かしら「くだらない差」を意識しないことはないのです。

横浜と茅ヶ崎は違う、とか。

恵比寿と目黒は違う、とか。

福岡と佐賀は違う、とか。

沖縄でも那覇と離島は違う、とか。

三菱商事と丸紅では格が違う、とか。



皆さんも手を胸に当てたら、必ず自分でもこれに近いくだらないことをしているはずです。

ただ、自分が全く関係ない世界にいるとくだらなく感じるだけです。

現に私も港区の妻のカーストやマウンティングをかなり馬鹿にしてますから。笑

まぁ、それはどちらかと言うとくだらないからと言うより、「虎の威を借りる狐」だから馬鹿にしてるだけですが。

ただ、私も女に生まれていたらそういう世界に染まっていた可能性もあるので、意外と馬鹿にはできないのかもしれませんが、、

まとめますと、なかなか人間は幸福になれないようにできていますが、それは

人間は幸福に慣れるから

というのと

人間は結局ステージが上がると比較する他者のレベルが上がるから相対的な満足度は変わらないから

という点に集約されています。

ではどうすればいいのか?については、次の投稿で。








電気紙芝居

我々は何かを考えるときに、どうしても「現在の常識」で考えてしまいます。

例えば、Youtuber あたりを「まともな社会人」ではないと考えてる人もおそらく上の世代には多いでしょう。

ヒカルのように年収3億稼ごうが、「そんな仕事認めない」と内心思っているオジサマは多いと思います。

しかし、こういった人は典型的な「現在の常識でしか考えられない人」です。

昔々、テレビの黎明期に「電気紙芝居」とテレビを揶揄する言葉がありました。

当時は、「まさかテレビなる電気紙芝居が映画を超える事はないだろう。テレビ局で働いてる人間なんてロクな社会人じゃない」と考えてる人がたくさんいました。

しかし、60年経ち、テレビが映画を(少なくとも視聴者という点では)はるかに超えてしまったのは言うまでもないでしょう。(数だけが全てではないので、完全に「超えた」と言えるかどうかは別として、少なくともテレビを馬鹿にする人はいないでしょう)

それに伴い、テレビ朝日日本テレビといった有名テレビ局に勤務している人の社会的地位は飛躍的に高まり、医者や弁護士あたりとも遜色のない社会的地位がもはや彼らにはあります。

私がここで何が言いたいのかと言うと、映画とテレビの関係とテレビとYouTubeの関係も同じようになる可能性も十分ある、ということです。

電気紙芝居」と揶揄されていたテレビが普遍的な地位を獲得したように、YouTubeが今後メディアのスタンダードになる可能性があるということが言いたいわけです。

そして私が「言いたいこと」は、実はYouTube電気紙芝居の話ではなく、もっと抽象化して言えば、

現在評価されている常識は、30年後40年後の常識ではないということです。

だいたい、東京だって500年前には片田舎でした。

アメリカも500年前には存在すらしていなかった。

このように、社会の評価などは常に恣意的です。

60年前、有名な俳優は「この俺様が電気紙芝居なんかに出るわけがないだろう」とテレビのことを笑っていましたが、現在のテレビの地位を考えると逆に私たちが彼らのことを笑ってしまいます。

それぐらいわれわれは常識に縛られているのです。

我々が今良いと思っているものが30年後に良い保証はありません。

ヘーゲルという哲学者が、

「われわれが歴史から学んだのは、われわれは歴史から学ばないということだ」

と有名な言葉を残していますが、今良いと思っているものが未来に良い保証はありません。

特に小さい子供を育てようとしている方に関しては、このことはいくら強調しても強調しすぎる事はないでしょう。

なぜならば、いまの子供がバリバリ社会で働くであろう40年後の世界は誰にも予想できない世界だからです。

「大企業に入れば良いだろう」、「偏差値が高い大学に行けばいいだろう」と盲目的に考えているようでは、30年後40年後後悔することになるでしょう。(ただ、だからといって「大企業に入る意味がない」などと言ってるわけではないので、念のため。「絶対視するなよ」という意味ですから。)

電気紙芝居」の話は、未来を考える上で非常に示唆的です。