Ojisanが哲学する

代官山在住のojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。京都大学法学部在学中に大手予備校で予備校講師をしていましたから、教育に興味があります。

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youdan2125

 

です。

 

katoです。

 

佐藤さん、榎本さん、糸井さん、寺田さんなどすでに私のラインを知っている方は特に新たに連絡していただかなくて結構です。

 

炎上の条件

ネット上で様々な記事が「炎上」しますが、「炎上」するには大きく分けて3つの条件があると思っています。

 

定量的な基準

・自分がどっちサイドか明確になるもの

・社会が重要視している価値

 

これが「炎上」の「燃料」です。

 

「炎上」の前提として、ブログや記事などが特定の属性を持つ人をあからさまに馬鹿にしたりこきおろしたりする必要があります。

 

「専業主婦は2億の損失」というこないだの引用が好例です。

 

「年収500万円以下の男は短小包茎くらい終わっている」などと有名人が発言したりしたらそれはそれは一瞬で炎上するでしょう。

 

そしてその炎上の条件を分析していくと、上に挙げたように定量的である必要があります。

 

例えば、美人とかブスとかこういったネタは比較的炎上しにくいですが、理由は単純で、美人やブスの基準が非常に不明瞭だからです。

 

そして「定量的である」ということとコインの裏表のような関係ですが、自分がどっちサイドかが明確であるものの方が炎上しやすいです。

 

「馬鹿な人は生きる価値がない」と仮に著名人が発言したとして、もちろん問題発言ですがそこまで炎上するとは思いません。

 

しかし、「早慶以外の私立大学に行くやつは馬鹿だ」と仮に著名人が発言したら、それはそれは大炎上するでしょう。

 

早慶か否か」という基準は非常に明確で「自分がどっち側が分かってしまう」がゆえに「入れてもらえなかった人」から見ると非常に不愉快でしょう。

 

また、上に挙げたような年収ネタや身長ネタもそうです。

 

韓国で「180センチ以下の男は男ではない」と発言した女性がボロカス言われていましたが、181cmの人は「選ばれてるサイド」ですし、173cmの人は「選ばれていないサイド」であることが明確だからこそ炎上します。

 

「背が高い」という定量的ではない表現を使っていればもうちょっと炎上しなかったと思います。

 

「年収500万円以下は」と条件をつけた瞬間に、それ以外の人は自分が非常に侮辱されていると感じますから、感情的に反論したいのは当たり前です。

 

専業主婦のネタも同様で、「専業主婦かどうか」は自分がどっちサイドか明確です。

 

これだけ「専業主婦批判記事」が専業主婦の反感を買うのも、自分の存在を否定するような発言だからです。

 

「専業主婦は2億の損失」

「専業主婦は実質ニート

と言われて気分が良い専業主婦などいないでしょう。

 

子どもネタもそうです。

 

「子供を育てたことがない女性に社会の何がわかるのだろう。子供を生んだことがない女性は半人前で発言権などない」と誰かが発言したら、子供がいない女性は死ぬほどむかつくでしょう。

 

これらは「どっちサイドか」があまりにも明確なため、感情的になりやすいのです。

 

「面白くない人は嫌い」、「味覚が優れていない人は嫌い」といった表現は極めて主観的で全く定量的ではないからこそ炎上しないのです。

 

そして最後の条件が「社会が評価する諸価値」なのかどうかです。

 

例えば前の2つの基準を満たす言説でも、「関西人は品がない」などと誰かが発言してもそこまで炎上しないでしょう。

 

なぜならば、同じ日本人の内部で何県出身かなどはそこまで重要なことではないからです。

 

「100メートル走が12秒以上かかる人は、オスとして終わっている」と誰が発言しても全く炎上しないでしょう。

 

それは、100メートル走のタイムなどが社会においてほとんど意味を持たないものだからです。

 

しかし、お金とか学歴とかこういったネタが炎上しやすいのは、それが「社会が評価する価値」だからです。

 

「100メートル走が12秒以上かかる人は、オスとして終わっている」と女性が発言してもたぶんあまり炎上しません。

 

しかし、「明治や立教の人なんて絶対付き合いたくない」と堂々と言っている慶応出身の女性が飲み会で実際にいましたが、めちゃくちゃ不評でした。

 

論理構造は全く一緒でも前者が炎上しないで後者が炎上するのは、逆説的に後者の社会的な価値を証明しているように思います。

 

こないだの投稿でも言いましたが、「あいつは親に似て音痴だ」は許されるのに「あいつは親に似てバカだ」という発言が許されないのも、逆説的ですが後者の方が圧倒的に社会的に価値が高いからこそなのです。

 

この理由は、現代の日本社会がIQや処理能力がある人を価値がある人間だと認めているからでしょう。

 

こういったネタに過剰に反応してムキになって否定したがる人は、自分でも気づいていないのですが、本当はそのムキになっている対象に対してものすごいコンプレックスと憧れがあるんですよね。

 

だからこそムキになるわけですから。

 

温泉の後の卓球で負けても「卓球のうまさが人間の価値じゃないからな!」とムキになる人はいませんが、「年収が人間の価値じゃないからな!」とムキになる人がいるという事は、やはりそれがないことが自分の中ですごく気になってるからこそなんです。

 

本来社会が人間のどの能力を評価するかなどは極めて恣意的ですが、現実問題として今の日本はそのような価値観で回ってるということです。

 

「炎上するネタ」、「みんながムキになるネタ」こそが社会が評価する諸価値だということです。

 

そして、社会を評価する諸価値でかつ定量的で自分がどっち側がわかりやすいネタは、大炎上の条件を全て満たしています。

 

年収

勤務先

出身校

住所

 

こういったネタこそが炎上やマウンティングの必要条件なんですね。

 

「人間心理の闇」でした。

ジコチュー

「人間は例外なくジコチュー」だと私は思っていますが、それを痛感するのは以下のような「お世話にはなっても自分は嫌」なケースです。

 

自分は無料のエロ動画でシコっていて、AV女優にお世話になっていても、自分の妻や彼女がAV女優なんて嫌なわけですよ。

 

自分は風俗やキャバクラに行くオジサマも、「自分の娘」が風俗嬢やキャバ嬢にはなって欲しくないわけですよ。

 

「ゆみちゃん、120分で予約取れますか?  今日は給料日なんでロングいっちゃいますよww」なんて言っているおじさまも、自分の娘が他人のちんぽを舐めるような仕事をやっていたら死ぬほど嫌なわけです。

 

どれだけパスタ屋さんでおいしいパスタを作ってもらって「おいしいパスタですね。」と感謝しているホワイトカラーのサラリーマンやお医者さんも、「じゃあ、仕事かわります?」と言われたら「、、、それはちょっと、、」となりますよね。

 

友達が困って借金を負って、それに対して「ほんとに大変だよな、何かあったら言ってくれ」と言ったところで、「なら、俺の借金を半分肩代わりしてくれよ」と友達に言われたら、「、、それはちょっと、、、」なりますよね。

 

どれだけお世話になっていても、「じゃあ、あんたやってみなよ」と言われて納得するものなんてかなり少ないのではないでしょうか。

 

「他人に感謝の気持ちを忘れない」、「職業に貴賎なし」などと美辞麗句を言いたがる人は多いですが、どれだけ感謝をしていても同情しても、腹の底で「でも自分はやりたくない」というのが実情です。

 

私は、自分の欺瞞性について理解しつつ綺麗事を言う人は嫌いではありませんが、自分の発言の欺瞞性について自覚することすらなく綺麗事を言う人や美辞麗句を並べる人は本当に苦手です。

 

人間はジコチューです。

 

およそ社会の仕事の大半は「誰かにやって欲しいけど自分はやりたくない仕事」です。

 

トイレの清掃員、ラーメン屋のおじさん、タクシーや電車の運転手、風俗嬢、道路工事の現場のおじさんetc

 

この事実をまず認めた上で次の議論にいきましょう。

 

ジコチュー

「人間は例外なくジコチュー」だと私は思っていますが、それを痛感するのは以下のような「お世話にはなっても自分は嫌」なケースです。

 

自分は無料のエロ動画でシコっていて、AV女優にお世話になっていても、自分の妻や彼女がAV女優なんて嫌なわけですよ。

 

自分は風俗やキャバクラに行くオジサマも、「自分の娘」が風俗嬢やキャバ嬢にはなって欲しくないわけですよ。

 

「ゆみちゃん、120分で予約取れますか?  今日は給料日なんでロングいっちゃいますよww」なんて言っているおじさまも、自分の娘が他人のちんぽを舐めるような仕事をやっていたら死ぬほど嫌なわけです。

 

どれだけパスタ屋さんでおいしいパスタを作ってもらって「おいしいパスタですね。」と感謝しているホワイトカラーのサラリーマンやお医者さんも、「じゃあ、仕事かわります?」と言われたら「、、、それはちょっと、、」となりますよね。

 

友達が困って借金を負って、それに対して「ほんとに大変だよな、何かあったら言ってくれ」と言ったところで、「なら、俺の借金を半分肩代わりしてくれよ」と友達に言われたら、「、、それはちょっと、、、」なりますよね。

 

どれだけお世話になっていても、「じゃあ、あんたやってみなよ」と言われて納得するものなんてかなり少ないのではないでしょうか。

 

「他人に感謝の気持ちを忘れない」、「職業に貴賎なし」などと美辞麗句を言いたがる人は多いですが、どれだけ感謝をしていても同情しても、腹の底で「でも自分はやりたくない」というのが実情です。

 

私は、自分の欺瞞性について理解しつつ綺麗事を言う人は嫌いではありませんが、自分の発言の欺瞞性について自覚することすらなく綺麗事を言う人や美辞麗句を並べる人は本当に苦手です。

 

人間はジコチューです。

 

およそ社会の仕事の大半は「誰かにやって欲しいけど自分はやりたくない仕事」です。

 

トイレの清掃員、ラーメン屋のおじさん、タクシーや電車の運転手、風俗嬢、道路工事の現場のおじさんetc

 

この事実をまず認めた上で次の議論にいきましょう。

 

人権思想の嘘

政治学憲法の勉強をしていると、「人権」や「平等」というタームがよく出てきます。

 

「人間は個人として尊重される」。

「人は人として生まれた瞬間に人権を持つ」。

 

スローガンとしてはなんとなくかっこいいですし、あまり他の分野の読書体験がなく政治学憲法の世界に入ってくる人間は、こういったヒューマニティー溢れる思想に頭がやられます。

 

しかし、ひねくれていると思われるかもしれませんが、私は「生まれてきて存在してるだけで人には無限の価値がある」といった思想に対しては極めて懐疑的です。

 

何もしないで存在してるだけで価値があるのであれば、生きていて努力をする必要はないと私は思ってしまうからです。(それは必ずしも相対評価で人より上に行くとかそういう意味だけではありません)

 

価値ある存在(定義は色々あると思いますが)になるために努力するからこそ、生きている意味があるのではないでしょうか。

 

もちろん親子間などの無償の愛は別の話ですが、こと社会的な関係において、人には生きているだけで至上の価値があるならば、文明を発達させる必要も高度な社会システムを構築する必要もないわけです。

 

人権思想や平等思想を誤解してはいけません。

 

これらはある意味「最低限のノルマ」を標榜したものであって、本当にすべての人間に生まれながら至上の価値があるはずがないのです。

 

もちろん私はナチスや現北朝鮮のようなとんでもない人権侵害を容認してるわけではありません。

 

「最低限の人権」という概念は大切だと思います。

 

しかし、最低限の人権があることと、「人間は生まれながらにして絶対的な価値がある」というのは少し話のレイヤーが違うと思います。

 

そもそも政治思想や憲法の教科書でも、人権は数学の公理のような扱いで、「なぜ人権に至上の価値があるか」という根本のところは全く触れられていません。

 

そういった意味で人権は宗教のようなものです。

 

とんでもない人権侵害から人を守る上で人権思想は大切ですが、人権に過剰な意味を持たせる方は、あまり社会や人間のことがわかってないのではないかと思ってしまいます。

 

人権はあくまでミニマムの話です。神絵kん

人権思想の嘘

政治学憲法の勉強をしていると、「人権」や「平等」というタームがよく出てきます。

 

「人間は個人として尊重される」。

「人は人として生まれた瞬間に人権を持つ」。

 

スローガンとしてはなんとなくかっこいいですし、あまり他の分野の読書体験がなく政治学憲法の世界に入ってくる人間は、こういったヒューマニティー溢れる思想に頭がやられます。

 

しかし、ひねくれていると思われるかもしれませんが、私は「生まれてきて存在してるだけで人には無限の価値がある」といった思想に対しては極めて懐疑的です。

 

何もしないで存在してるだけで価値があるのであれば、生きていて努力をする必要はないと私は思ってしまうからです。(それは必ずしも相対評価で人より上に行くとかそういう意味だけではありません)

 

価値ある存在(定義は色々あると思いますが)になるために努力するからこそ、生きている意味があるのではないでしょうか。

 

もちろん親子間などの無償の愛は別の話ですが、こと社会的な関係において、人には生きているだけで至上の価値があるならば、文明を発達させる必要も高度な社会システムを構築する必要もないわけです。

 

人権思想や平等思想を誤解してはいけません。

 

これらはある意味「最低限のノルマ」を標榜したものであって、本当にすべての人間に生まれながら至上の価値があるはずがないのです。

 

もちろん私はナチスや現北朝鮮のようなとんでもない人権侵害を容認してるわけではありません。

 

「最低限の人権」という概念は大切だと思います。

 

しかし、最低限の人権があることと、「人間は生まれながらにして絶対的な価値がある」というのは少し話のレイヤーが違うと思います。

 

そもそも政治思想や憲法の教科書でも、人権は数学の公理のような扱いで、「なぜ人権に至上の価値があるか」という根本のところは全く触れられていません。

 

そういった意味で人権は宗教のようなものです。

 

とんでもない人権侵害から人を守る上で人権思想は大切ですが、人権に過剰な意味を持たせる方は、あまり社会や人間のことがわかってないのではないかと思ってしまいます。

 

人権はあくまでミニマムの話です。神絵kん

ゲームのルール

生物レベルで考えたときに、40億年間途切れることなく遺伝子の伝達がなされて、今私たちが生きてること自体奇跡的なことです。

世界中には70億人の人がいて、日本には約1億人の人がいます。

その中で、相対的に「優れている」と評価を受けている人は残念ながらわずかです。

普通の飲食店の店員やタクシードライバーなどは文字通り「普通の人」です。

しかし、やはり生物レベルで考えたら彼らが存在することには非常に意味があるわけです。

これは綺麗な道徳やかっこつけた人権論ではなく、なぜ優秀な人だけがどんどん残るのではなくいろいろな人が存在してるのか?

いや存在するべきなのか?

ちょっと考えてみたらわかりますが、生物界のルールは状況によって勝者が変わります。

あの恐竜も隕石の衝突によって一瞬で絶滅しました。(と言われていますが見たことがないので何とも言えませんけど)

そして人間(ホモサピエンス)の内部で見た時にも、「ゲームのルール」はその時々によって違います。

日本だけで見ても、平安時代には和歌を巧みに読む能力を持つものが強く、戦国時代には武力があるものが強く、AV業界ではペニスの硬さと持続力があるものが強いわけです。

ゲームのルールによって勝者が変わるわけですから、いろいろな個体がいる方が、環境の変化には強いわけです。

今の先進国の社会で「強い」と評価をされるホワイトカラーの人間も、ゲームのルールが変わったら途端に「弱い」と評価されることもありうるわけです。

人工知能社会の到来によって、これは本当にありえない未来ではないでしょう。

そうなったときに、誰が次の強者になるのか?

こればかりはその時が来ないとわかりません。

だからこそ色々な人間がいることに意味があるのです。

今の社会秩序で「優秀じゃない」からと言って、生物として完全に劣っていると考えてしまうのも問題です。

これは高邁な人権思想などではなく、むしろ人類の未来をプラグマティックに考えた結果、私はいろいろな人間がいた方が生物として強いと思っています。

平安時代にマイケルジョーダンや大谷翔平選手がここまで存在意義があったとは思いませんし、鎌倉時代山中伸弥教授のような研究能力があったところでそこまで存在意義はなかったでしょう。

それでも彼らの祖先が平安時代鎌倉時代に(マイケルジョーダンの場合はアフリカのどこかでしょうか)、存在したからこそ彼らの能力は1,000年越しに花開いたわけです。

このように能力の評価とは多分に恣意的なものです。

今の社会秩序で「無能」な人は残念ながらたくさんいますが、そういった人の遺伝子が1,000年後に違う形で花開くかもしれないからこそ、そういった方が様々な隠れた能力を持って生きることに意味があるのです。

生物レベルで人間を眺めてみると本当に面白いですね。



私の価値観に大きな影響を与えた一冊です。ご興味のある方はお読みください。

「パクリ」ではないですが、当然私の主張とかなり似通ったことが書いてあります。