Ojisanが哲学する

代官山在住のojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。京都大学法学部在学中に大手予備校で予備校講師をしていましたから、教育に興味があります。

教育論はなぜ難しいか2

4つほどの前のポストで教育論が難しい理由について長々と論じさせていただきました。

このポストでは教育論の難しさの2つ目の論点についてお話をしていきたいと思います。

教育に限らず文系の学問全般に言える事かもしれませんが、教育における「原因」と「結果」という因果関係の特定は非常に難しいです。

「中学受験をしたから大学受験も成功した」
「部活をギリギリまでやったからかえって集中できて良かった」
「あの塾に行ったからよかった」

etc

成功した人間も失敗した人間も好き勝手「原因」を特定しますが、想定している原因が本当に真の原因なのかは誰でもわかりません。

「あの塾に行ったから受かった」とは言うものの、理科の実験室のように同じ時期に他の塾に行った経験をすることは不可能な訳で、実はどっちがよかったのかなんて誰にもわかりません。

母親に昔「あんたもずっとサッカーしたり遊んでたから最後に2年くらい集中できてよかったでしょ」と言われましたが、それは誰にもわかりません。

「結果オーライ」でまあまあ勉学面に関して結果が出たからうまいことこじつけてる感じは否めません。

テレビ番組に出ている東大生親子のインタビューとかで親御さんに「お母さんの教育で何が良かったと思いますか?」なんて言ってたりするわけですが、「勝てば官軍」で偉そうに語ってます。

しかし、東大生も下3割くらいは「あと数学1問落としていたら早稲田政経や慶応理工に行っていた」くらいの「運が良かった」タイプですし、灘開成あたりの東大模試成績上位者(上位2割くらいかな)などの「受かるべくして受かった人」の話以外は「眉唾」ですよ。

それでも勝った人間は成功要因を語り、負けた人間は過剰に敗因を語りますが、こんなのちゃんちゃらおかしいわけです。

それから「上2割」タイプですら、「そもそも先天的に頭が良かった」といった事情も加味すると、「方法論」や教育が正しいとは断定できません。

これは会社経営など万事に通じる話ですが、「因果関係」ってすごく難しいですし、簡単に「あーしたらこうなった」とは言わない方が賢明です。

私が代官山と港区ベイエリアのタワマンに住めるくらいに投資で稼げるのも多分に「運」がいいからです。

「どうやったら若いのにそんなにうまくいくんですか?」とよく言われますが、「僕は親戚や親が金持ちでしたし、親の教育のおかげでたまたま入った学校が良かったから人脈も出来たし、たまたま経済状況も良かったので、今のところうまくいってます。運がいいとしか言いようがありません。」としか答えようがありません。

これは「謙虚ぶっている」とかではなく本当に本心です。

というか、世の中のそこそこうまくいっている人なんて全部そうですよ。

遺伝とか家庭環境にさかのぼったら、みんな何かしら運がいいだけです。

それから本当の「そもそも論」ですが、「教育の成功」は年収や進学先で語られることが多いですけど、本来、教育の真の目的は「子供の幸福」です。

これが最大にして唯一の教育の目的でしょう。

しかし、「幸福」など定量的には評価できない以上、どうしてもいい学校に入れる、とかいい会社に入って稼ぐ、とかを「教育のメルクマール」に用いがちです。

子供の学校や年収などはあくまで「便宜的な指標」でしかないのですが、それが「目的」のように語られます。

これも教育に関する議論の難しさかもしれません。

「教育の因果関係の困難さ」と「教育のアウトプットの評価の困難さ」という「教育論の難しさ」についてでした。






受験の必勝法

どうしたら成績が上がるのか?

子供を持つ親の素朴な疑問でしょう。

非常にシンプルでちょっと考えたらわかる話ですが、成績を上げるためのゴールデンルールは、

さっさと授業を卒業して、ひたすら自分で問題を解いて自分で暗記することです。

小中高の教育が基本的に授業を中心になりたっているので、「勉強=授業を受けること」という先入観は誰もが強く持っているところです。

しかし、授業を受けて、その予習と復習をすることを「勉強」だと思っているうちは、絶対に成績は上がりません。

これは予備校業界の不都合な真実ですが、代ゼミ東進ハイスクールもあれだけ有名な先生を揃えているのに、ほとんどの生徒は成績が上がらないわけです。

現職の予備校講師には申し訳ないですが、10の技量の予備校講師が教えようが、8の技量を持つ予備校講師が教えようが、そんなことは成績アップにはほとんど関係ありません。

地方の公立の教員とかで明らかにわかってないヤバイ教師はさすがに論外ですが、代ゼミの有名講師と河合塾の普通の講師の「差」など成績アップにはなんの因果関係もありません。(私が予備校講師にならなかった理由の一つがコレです。)

「いい授業」、「悪い授業」云々は予備校講師のマスターベーションであり、生徒の「逃げ」の口実です。

ところで、そもそもテストは相対評価なのである程度仕方ない面もあるのですが、センター試験の平均点などを見ていると、やはりほとんどの生徒は端的に言うと「わかっていない」状態で入試を迎えています。

理由は明らかで、いつまでも授業を受けているから、成績が上がらないのです。(学校の授業はどうせ受けなければならないのでうまく活用することを考えるべきですが、少なくても2学期や3学期にわざわざ塾に行く必要などありません)

カフェなどでたまに高校生が勉強していますけど、「多分落ちるんだろうな」という生徒は遠目で見ていてわかります。

今はパソコンの動画などで授業が見れる時代ですが、11月にパソコンの授業を受けている時点で、その子が目指している第一志望に合格する確率は極めて低いと思います。

どんな科目でも、勉強の鉄則というのは決まっていて、

授業→知識を習得する参考書→問題を解く参考書

という流れはどんな科目でもどんな試験でも共通です。

そして、ほとんどの生徒は、この三つを6:3:1くらいの塩梅でやるわけですが、これが圧倒的にマズいわけです。(下手したら7,2,1くらい)

本来は、夏までが5:3:2くらいで、秋以降は、0:2:8くらいにならなければ合格はおぼつきません。

なぜならば、どんな試験も最終的には試験場で問題を解かなければならないわけですし、普段から自分で問題を解かない限り、本番の問題が解けるはずがありませんから。

特に、英数国、物理は自力で問題を解かないと、どうやっても成績は上がりません。

予備校関係者は言わない不都合な真実ですが、受験学年で冬季講習や直前講習を受講している時点で、不合格ロードまっしぐらです。

直前期に「人から学ぶこと」などがあるようではそもそも勉強計画が間違っています。

知識や解き方の習得は夏くらいまでに終わらして、あとはひたすら暗記と問題演習にしないと難関大学の合格はおぼつきませんよ。

これ、ある程度受験勉強ができた人なら常識で、「なに当たり前のこと言ってるの?」という話ですが、やはりほとんどの受験生はわかっていないところです。

繰り返しますが、試験場では最終的に問題を解くわけですから、11月に授業や講義で「知識や解き方を学んでいる」ようでは、来年はちょっと厳しいですね。

早く授業を卒業する。

これが受験の成功者へのゴールデンルールです。












なくなる仕事

最近では、「人工知能によりなくなる仕事」の特集がしばしばなされています。

しかし、どれだけ仕事がなくなるといっても、世の中から仕事がなくなる事はありません。

「我々の子孫は週の労働時間が15時間になる」というケインズの有名な予言がありますが、それが明らかに外れたことからも明らかなように、仕事がなくならない事は間違いないでしょう。(そもそもそれが人類にとって良いことかどうかは別として)

ある仕事がなくなれば別の仕事が出てきます。

人工知能だけが特別と思われがちですが、産業革命以降の社会において、「なくなった仕事」など山ほどあります。

最近では自動改札の導入により切符を切る係の人がいなくなりましたし、機械の発達によりお札を数える人もいなくなりました。

氷屋さんもいなくなりました。

写真屋さんも姿を消しました。

レンタルDVD・CD等も完全になくなるわけではないにせよ斜陽産業であることは否めないでしょう。

それでもやはりアフィリエーターやプログラマーといった新しい仕事はどんどん出てきています。

そういった意味で仕事が全くなくなる心配をする必要はありません。

また、今後人工知能や機械化により仕事がいまよりなくなる事はあるでしょうが、そうしたらその分社会全体の中で必要なお金の量が減りますから、心配する必要はありません。

ちょっと大げさに言えば、そもそも社会からお金があまり必要ではなくなるからです。

「何をするにもお金が必要」と言う方は現代の常識でものを考えています。

そもそもお金の役割とは何か?

端的に言えば、お金を払うことにより相手に強制力を持つことができるわけです。

例えば空気を吸うのにお金はかかりません。

海で泳ぐのにもお金はいりません。

それは空気を吸ったり泳いだりするために何かしらの労務を提供している人間がいないからです。

なぜラーメン屋で食べたらお金がかかるのかといえば、ラーメンを作っている人にお金を媒介としてある種の命令(お願い)をしているからです。

違うポストで似たことを何度か言っていますが、お金なんていうのは所詮その程度のものです。

自分でできないことを他人にやらせるための道具がお金です。

自分で三つ星シェフのような料理が作れたり、自力で家が建てられたらお金など必要ありません。

人に何かしらのお願いや強制をするからこそお金が必要になるわけです。

そのように考えると、人工知能や機械化が今以上に進展すると、すべて機械やロボットがやってくれるわけですから、今より相対的にお金の必要性がなくなっていきます。

仕事がなくなる心配をするかもしれませんが、逆に自分がお金を使うこともなくなってくるので、仕事がなくなったり減ったりすることにそこまで懸念を示す必要はありません。

「お金がなきゃ困る」はあくまでも現代社会のパラダイムを前提にしていますから。

そんなわけで、私は少しばかりの心配をしつつも、人間の未来についてある程度楽観的に考えています。








なぜ受験教育ネタが多いのか

私の投稿をフォローしていただいている奇特な方なら一瞬で気づきますが、私は受験や教育のネタをぶっこむ人です。

なんで私が受験勉強のネタを頻繁に投下するのかと言えば、単純に興味があるからと言ってしまったらそれまでですが、私にとって受験勉強の話は「忘れられない元カノ」みたいなものなのです。笑

何度も言っていますが、私はかなり有名な予備校で教鞭をとっていましたので、基本的に人にものを教えるのは大好きです。

今でも無料でいいのでもう一度講義をしたいとすら思っています。

しかし、(これもまた嫌な言い方ですが)ある程度以上の社会的レイヤーの人にとって、予備校講師とか受験産業、教員というのは、「ワロスな仕事」でしかありません。

基本的には何かしら人生に挫折した人が嫌々やるのが教員なり受験産業の仕事です。

林修も自虐的に予備校講師を馬鹿にしていますが、まぁそれが普通といえば普通です。

いくら私が好きでやってると言い張っても、やはり人に笑われるような仕事はできません。

ですから結局新卒で学校の教員や予備校講師にはならなかったわけですけど、今でも未練はあるわけですね。

やはり思春期の青年にとって、受験勉強なり先生って非常に影響力がある存在ですから。

皆さんも受験生時代に予備校に通っていたりしたら、代ゼミの富田や西、西谷とか印象深い先生っていると思うんですよ。

自分もこのようになりたいと思って非常勤講師をやっていたわけですから、思い入れはなかなか強いです。

それでも結局仕事にはしなかったわけですが、「元カノ」のように気になってしまうわけです。

ですから現実的に今後も予備校講師をやる事はないでしょうが、自分はその手の情報を提供する能力に関して圧倒的に自信がありますし、そもそも好きですから、このブログでどんどん提供していきたいわけです。

今後人工知能の発達により、たしかに処理能力や記憶力といった従来の受験勉強的な能力は時代遅れのものになるかもしれません。

そしてそもそも学歴や受験勉強の価値も相対的に低くなっていくかもしれません。

正直その未来図も十分に予想しています。

しかし、その一方で、私は若者が通過儀礼として必死に目標に向かって努力するのを見るのが好きなのです。

たしかに、日本の受験勉強は相対評価ですからほとんどの受験生はハッピーエンドではないかもしれません。

しかし、それでも結果を出そうと必死に努力することが社会人としての準備として非常に意味があるものだと思ってしまいます。

最近では遺伝の研究等により、そもそも努力できること自体が才能であるというみもふたもない事実が明らかになってきました。

これは私の肌感覚にもぴったり合います。

やはり知能も努力する才能も平等に与えられていません。

しかし、それでも自分の器の中で必死に努力することに意味があるような気がするのです。

ですから、結果としての進学先などにさしたる意味などありません。

自分の中で自分の器の中で最高にやり切ったと思えることが大切なのです。

ですから、若者がスポーツや勉強で努力することにはとても意味あることだと私は思っています。

これからひょっとしたら時代遅れになるかもしれませんが、やはり人生は困難の連続です。

どれだけ恵まれている人間でも辛い瞬間がないはずがないでしょう。

そういった苦難を乗り越えるよすがとして、私は部活動や受験勉強等に多大な意味があると思っています。

また、人工知能の対等によってそもそもパラダイムが変わるかもしれませんが、少なくとも現在のパラダイムにおいて、受験勉強で身に付く論理思考なり表現力なり記憶力なりはホワイトカラーの仕事をする上で非常に有意義なものだと思っています。

ですから、ぜひ受験生や子育てをされている親御さんなどに役に立つ情報を提供したいですね。

和田秀樹とか尾木ママのようなイメージでしょうか。

興味がある人はぜひご覧になってください。









教育論はなぜ難しいか1

さきほどのくだらないネタに比べたらかなり真面目な話ですが。

このブログを見ていらっしゃる方にも、子育てをしてる親御さんが多いと思いますが、子育てに関する「どっちがいい」系の議論は非常に難しい。

小学校受験か中学受験か
そもそも公立か私立か
塾に行くべきか否か
留学か国内か

みもふたもないですが、こういった教育にまつわる議論は絶対に答えがありません。

大きな理由として、子供が仮に就学前や小学生位だとすると、子供が社会に出てバリバリ働く時というのがあまりにも現在とかけ離れているからです。

いま子供が7歳位だとして、その子供が社会の中軸として活躍するであろう35〜50歳くらいというのは、2050年くらいなわけです。

誰が2050年の社会カーストや世界経済を予測できるでしょうか?

それは1990年にスマートフォンアフィリエイトなんてものが存在していたり、そもそもインターネットがここまで普及するということを誰も予想できなかったように、2050年にはあらゆる社会の前提が変わっているでしょう。

1990年と言えば、内田有紀とか田原俊彦とかポケベルの時代ですよ?笑

ももクロ大谷翔平も携帯電話もパソコンもJリーグも生まれていない時代です。

日本長期信用銀行が潰れたり、東芝がここまで凋落したり、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行がここまでステータスを上げるなど誰も予想していなかったと思います。

また、1980年ぐらいに大学生だった人は、一流の省庁や大企業に行くのが勝ち組だと信じて疑っていなかったと思いますが、そんな人がエリートコースに進み、いま突然リストラにあったりするわけです。

教育が難しいのはここです。

教育を授けられているのは「今」ですが、少なくても仕事でそれが生かされるのは30年後。

つまり、どうやっても「タイムラグ」ができるわけです。

ですから、私としてはできるだけ普遍性が高い能力を子供に身に付けさせることを心がけるべきだと思っていますが、その「普遍性」すら本当に普遍的なのかどうかも怪しいです。

というのも、平安時代や戦国時代と今を比べたときに「時代が求める能力」は全然異なるからです。

これから先の変化は「平安時代と今」くらい大きくドラスティックな変化になるでしょう。

われわれは、学力が高かったり処理能力が高かったりする人を「頭がいい」と称しますし、頭が良いことがこの社会で価値があることだと無意識に信じています。

しかし、戦国時代の戦う能力が現在一般人としてほぼ不要なように、頭が良いことの価値が今後全くなくなるかもしれません。

というのは、今後の汎用人工知能のレベルというのは我々が想像しているよりも凄まじいものになるからです。

そうなると、文章能力とチンコの太さだけが取り柄の私は、AV男優かホームレスになるしかないかもしれません。

もちろん本当に「頭脳仕事」が完全になくなるとは思いません。

しかし、我々が今「頭脳仕事」だと思っているもののかなりの程度は人工知能に置き換えられていくでしょう。

そういった時代において、頭が良いことの価値は、「最先端の研究者」や「人工知能を作る人間」以外にとって全く意味がなくなってくるかもしれません。

上位0.001%レベルの頭の良い人だけが存在価値があるという意味です。

例えば、現代社会で「スポーツができる事」や「足が速いこと」は、スポーツ選手以外にとってほとんどどうでもいい能力です。

丸の内のサラリーマンが、「高校時代100メートル何秒でしたか?」なんて聞かないでしょう。

100mが10.9秒でも14.2秒でも同じ位意味がありません。

しかし我々も笑っていられません。

ホワイトカラーの人間は今のところ幸い、偏差値70と60の「差」は能力の「差」として認知されていますし、所得に反映されます。

しかし、あらゆることが人工知能に置き換えられていくと、上位0.001%くらいの能力の人間だけが人工知能を研究するような立場として価値がある存在だと認識されて、偏差値70と55くらいの「差」が100メートル走の上の例えと同じように無価値化するかもしれません。

つまり、暗記力や処理能力、論理思考が偏差値70のレベルでできても偏差値50のレベルでできても、そんな事はほんとにどうでもよくなるかもしれません。

笑っている人がいるかもしれませんが、100メートル走の話や平安時代の和歌の話を考えたら、こういった地獄絵図が絶対に未来に起きないとは限りませんし、むしろ確率論で言えば、こっちの可能性の方が高いでしょう。

それなのに今の学校教育は、価値観が完全に昭和なのです。

ただ、小学校の先生や文部科学省を責めるわけにもいきません。

なぜならば、「いま」(2017年)という「点」で見たときに、今のところは処理能力や記憶能力がそれなりに意味を持っているからです。

これはどんな時代や社会であろうと直面する問題ですが、上で述べたように、子供が教育を受けているスパンと実際に彼らが社会で活躍するスパンがずれてるわけですから、誰も未来を予想することはできない以上、みもふたもない言い方をすれば「仕方ない話」です。

本当に身もふたもなくて何か積極的な解決策があるわけではないのですが、子供の教育の難しさというのはこういった時間軸のタイムラグが根底にあるのではないでしょうか?






どの入試方式で入ったか

昨日の藤沢かずきの話の続きですが。

日本は大学入学以降の評価基準が事実上存在していないので、入学試験が非常に大切だという話をしました。

ほんとの「そもそも論」を言えば、大学入学以降の学習や社会人になってからの伸びの方が大切ですが、現実にはそうなっていない以上、「大学入試のパフォーマンス」は特定の人物を評価する上で無視できません。

Facebookや本のプロフィール等でも「〇〇大学卒業」と書いてあっても、さすがに入学方式まで書いてありません。

しかし、昔と違って必ずしも一般入試で入っていない人が一定の割合を占める現代において、「どの形式でその大学に入ったのか」が実は問われるべきです。

例えば私の友人でも
早稲田大学政治経済学部政治学科卒業」という形式的な学歴が素晴らしい人がいますが、実は指定校推薦だったり実はAO入試だったり、結構「インチキ」のような輩が一定程度います。(余談ですが、私は個人的に早慶の付属高は認めてるんですよね。なぜなら中学受験や高校受験で高いパフォーマンスを示しているからです)

アメリカのように単位認定がきわめて厳格であれば、本来「入り方」なんてどうだっていいわけです。

出口の品質管理がしっかりしているわけですから。

しかし、日本のように出口の品質管理がザルの場合、事実上消極的な判断として入り方を気にせざるをえません。

企業も形式的な出身校を気にする割にはあまり「入り方」を気にしないのはちょっと判断基準が不明確です。

やはり、付属高と一般入試以外はちょっと「インチキ感」は否めないです。

国立大学でも、少数ですがインチキはあります。

90年から2000年ぐらいに受験した人なら、悪名高き「東大後期」や「京大経済論文」という事実上の裏口入学を知ってる人もいるでしょう。

あまりにも入ってくる人のレベルが低いので廃止されましたが、90年代にセンター試験が英語と国語と社会で、二次試験は小論文だけで決まるという、ありえない方式を東大の法学部と文学部で採用していました。

前期日程が本物の東大入試で、後期日程のこの入試形式は大ブーイングでしたけど、なぜか20年ほどやっていましたね。

この東大後期のレベルと言うのは端的に言うと、慶応法➕αくらいですから、理科も数学も一切やらなくて東大に入れたわけです。

また京大経済学部でも「論文入試」という事実上神戸大レベルの入試を30年ほどやっていました。

ですから私は「京大経済卒」と見た瞬間にフラグが立ってしまうんですよね。笑

経済学部の論文入試で入ることを京大では「ケーロン」と言いますが、「あいつケーロンやで」は当然褒め言葉ではなく侮辱です。

「裏口で京大に来た」と暗にほのめかしてるわけです。

裏口と言うと口が悪いようですが、例えばちょっと昔話になって高校時代の話とかになった時に、東大後期や京大経済論文のやつは、本当のことを話すとばれてしまうわけです。

京大経済論文はまだしも、東大後期組はそれがばれた瞬間に非常にバツの悪そうな顔をしますから、やはり自分がインチキをして入ったことを自分が一番わかってるわけでしょう。

そもそも東大や京大などの品質保証は文系でもかなり難しい数学をやり、7科目をそれなりにやり切ったことにあるわけですから、「理科も数学もやらないで裏口で入った」なんてばれてしまったらほとんど値打ちがないですから。

この手の入試形式の話は、私のような元予備校講師でもない限り普通知らないでしょう。

しかし、東大でも京大でも、通常課されているタスクをクリアせずに裏口で入ってる人間がいるということです。

いわんや早稲田や慶応といった私立大学では、本当に一般入試で表門から入ってきてる学生は7割程度しかいないのではないでしょうか。

まぁ繰り返しますけど、本当のそもそも論を言えば、入試なんて通過点で卒業や卒業の方が大切なわけですが、日本の教育システムを考えると、どうしても「入試の時の最高到達点」を気にしないわけにはいきません。

これを見てドキッとしている推薦AO組と(まさかたまたまいらっしゃらないと思いますが)東大後期や京大ケーロン組の方は、「一般入試組」に負けないように一生仕事能力や教養を高めることが、インチキへの「贖罪」だと思って努力しましょう。

本来「通過点」であるべき話ですから。



よく思われたい

最近ちょっとイラっとしたことがあったんですが、まぁその原因になった人間を仮に鈴木太郎としましょう。

鈴木は、自己顕示欲や承認欲求が非常に強く、「いい人に思われたい」という欲望が人一倍強い人です。

自己顕示欲があったり「いい人に思われたい」こと自体はきわめて真っ当ですし、私も実際そういった感情があるでしょう。

しかし、鈴木がちょっと気持ち悪いと思うのは、「不特定多数にいい人に思われたい」という欲望が強すぎて、逆に偽善者っぽいのです。

鈴木について「鈴木がこんなことを言っていた」とブログに引用しようとすると、「俺はこんなこと言ってないですよ。馬鹿にしてるわけじゃないし、ちゃんと言葉に気を遣って書いてますから、下手な引用はやめて下さい」と言われるのですが、これが私から見ると非常に気持ち悪いのです。

要するに、本当は特定の属性の人間を見下していたり馬鹿にしてるわけですが、ブログなどで不特定多数にできるだけよく思われたいから、そういった感情が全くないかのように活字に細心の注意を払っているわけです。

しかし私から言わせると、ここまでいい人だと思われたいと気を使ってること自体が逆に気持ち悪いのです。

皆さんも周りにそういう人っていると思いますけど、聖人君子ぶっているのがわかってしまうから気持ち悪いってありますよね。

本当に聖人君子ならいいのですが、そうではないですからね。

あくまでも「聖人君子であり人格者だと思われたい」からいい人ぶってるだけですから。

いい人ぶってるのかわからない位完璧に演じられているのなら良いのですが、いい人ぶってるのがわかる時点でアウトです。

自分で言うのもなんですが、私のブログを表面的に読んだら「こいつ性格悪いな」と思う方もいらっしゃるでしょうけど、逆に言えば私はかなりの程度本音で喋っています。

また、私は人並み以上に自己顕示欲も強いですし、人並みに特定の属性の人間を見下していますが、これも程度を超えない範囲においては極めて自然な感情だと開き直っています。

本音でしゃべった結果としてそのように思われるのであれば仕方ないと思ってます。

逆に認めてしまいます。

しかし、自己弁護のようですが、いい人ぶっているよりは100倍マシだと思っています。

「よく思われたい」ために自分の本音を隠していい人ぶるのは本当に気持ち悪いですし、逆にそれがわかってる時点で承認欲求を満たせないという意味では、実は自分にとっても最悪の戦法でもあるんですよね。

「いい人ぶってる」ではなく「本当にいい人」なら話は別ですが、世の中の「いい人」の9割は「いい人ぶってる人」でしかないです。

「よく思われたい」がいきすぎると、私のように人の深層心理や本質がすぐ見える人間から見ると非常に滑稽なのです。