Ojisanが哲学する

哲学大好きなojisanが偉そうに人間や社会を語ります

電気紙芝居

我々は何かを考えるときに、どうしても「現在の常識」で考えてしまいます。

例えば、Youtuber あたりを「まともな社会人」ではないと考えてる人もおそらく上の世代には多いでしょう。

ヒカルのように年収3億稼ごうが、「そんな仕事認めない」と内心思っているオジサマは多いと思います。

しかし、こういった人は典型的な「現在の常識でしか考えられない人」です。

昔々、テレビの黎明期に「電気紙芝居」とテレビを揶揄する言葉がありました。

当時は、「まさかテレビなる電気紙芝居が映画を超える事はないだろう。テレビ局で働いてる人間なんてロクな社会人じゃない」と考えてる人がたくさんいました。

しかし、60年経ち、テレビが映画を(少なくとも視聴者という点では)はるかに超えてしまったのは言うまでもないでしょう。(数だけが全てではないので、完全に「超えた」と言えるかどうかは別として、少なくともテレビを馬鹿にする人はいないでしょう)

それに伴い、テレビ朝日日本テレビといった有名テレビ局に勤務している人の社会的地位は飛躍的に高まり、医者や弁護士あたりとも遜色のない社会的地位がもはや彼らにはあります。

私がここで何が言いたいのかと言うと、映画とテレビの関係とテレビとYouTubeの関係も同じようになる可能性も十分ある、ということです。

電気紙芝居」と揶揄されていたテレビが普遍的な地位を獲得したように、YouTubeが今後メディアのスタンダードになる可能性があるということが言いたいわけです。

そして私が「言いたいこと」は、実はYouTube電気紙芝居の話ではなく、もっと抽象化して言えば、

現在評価されている常識は、30年後40年後の常識ではないということです。

だいたい、東京だって500年前には片田舎でした。

アメリカも500年前には存在すらしていなかった。

このように、社会の評価などは常に恣意的です。

60年前、有名な俳優は「この俺様が電気紙芝居なんかに出るわけがないだろう」とテレビのことを笑っていましたが、現在のテレビの地位を考えると逆に私たちが彼らのことを笑ってしまいます。

それぐらいわれわれは常識に縛られているのです。

我々が今良いと思っているものが30年後に良い保証はありません。

ヘーゲルという哲学者が、

「われわれが歴史から学んだのは、われわれは歴史から学ばないということだ」

と有名な言葉を残していますが、今良いと思っているものが未来に良い保証はありません。

特に小さい子供を育てようとしている方に関しては、このことはいくら強調しても強調しすぎる事はないでしょう。

なぜならば、いまの子供がバリバリ社会で働くであろう40年後の世界は誰にも予想できない世界だからです。

「大企業に入れば良いだろう」、「偏差値が高い大学に行けばいいだろう」と盲目的に考えているようでは、30年後40年後後悔することになるでしょう。(ただ、だからといって「大企業に入る意味がない」などと言ってるわけではないので、念のため。「絶対視するなよ」という意味ですから。)

電気紙芝居」の話は、未来を考える上で非常に示唆的です。

貨幣は共同幻想である

私はこのブログでも何度も申し上げていますが、お金というのは、それ自体は紙であり、AgなりAlです。

自然界においてはそういう価値しかありません。

「ただの紙」、「ただのAg」。

ただ皆さんがそれに価値を感じているのは、「お金に価値がある」とみんなが信じているからです。

「自分のお金はきっと何かと交換できる」と信じているからこそ、みなさんお金のために働くのです。

まさか、「インクが染み込んだ紙」が欲しくてみなさん仕事をするわけではないでしょうから。

高校の政治経済の教科書にも書いてありますが、そもそも銀行はすべての預金者にお金を払い戻せと言われても払い戻すことができないですからね。

これを初めて聞いたときに、私はなんて恐ろしいんだ、と思いました。

簡略化して言うと、a,b,c,d,eの5人がハイアット銀行に2000万円づつ(計1億円)あずけたとして。

aさん達5人が「2000万円返して〜」と同時に銀行に行っても、既にその資金は貸し出されているので、1億円分返すことはできないのです。

それでも現実の社会が混乱しないのは、「まさかみんな同時にお金をおろす事はないだろう」とaさんやcさんが信じており、銀行も「まさかみんなが同時に返せ、と言ってくる事はないだろう」と信じているからです。

「信じている」というきわめてシンプルな感情以外に貨幣を正当化する根拠はないのです。

むしろ平安時代あたりでは「お金を使え」とお上が指示をしてもお金を使わない時期すらあったのですから。

しかし、個人レベルで考えてみたらおかしくないですか?

「どうせすぐに『返せ』と言ってこないからしばらく他人に貸す」なんて個人レベルでやられたらブチ切れますよね。笑

しかも預金には期限があるわけじゃないですから、明日全員が同時にやってこない保証などどこにもないのです。

そのように考えると、貨幣経済というのは、ただみんなが未来を信じているから成り立っているとも言えます。

なんか不思議ですね。

だからこそ、お金すら100%信用せずに生きていくことが大切です。

ではどうやって?という話はまた次の投稿で。

若い女性に対するひがみ

日本人の男性は若い女性が好きです。

それについて是非を述べるのはここでのメイントピックではありません。

ただ私が違和感を感じるのは、行き遅れた女性や40代くらいの女性が「日本人男性はロリコンだ」といったカタチで「若い女性が好きな男性」をよくおとしめている点です。

当たり前の話ですが、

時間はすべての人間に平等に与えられています。

例えば、20〜25歳の5年間は誰でも等しく与えられています。(その歳まで生きられれば)

その時間をうまく利用するのか適当に過ごすのか。

それは「自己責任」です。

私は一般的に自己責任という言葉は好きではありませんが、「時間」に関しては本当に等しくすべての人に与えられている以上、若さを活かすか活かさないか、は自己責任という他ありません。

たまたま自分が若さを最大限に活用できなかったからと言って「男が若い女が好きなのは精神的に幼い証拠だ」、「日本人男性は自分に自信がない」、「日本人男性はロリコンだ」と息巻いて語るのは情けないですし、論点をすり替えて何とか自分を肯定したいという自己肯定バイアスが容易に透けて見えます。(要は、ニーチェルサンチマンです)

若い時から一貫して「若い女が好きな男性はロリコンだ」と主張していたならわかります。

しかし、絶対そうではないでしょう。笑

自分がチヤホヤされている時はそんなことは言わずに、自分が年老いて相手にされなくなったから「酸っぱいブドウ」で言っているわけですから。

チャンスを活かすか活かさないか。

繰り返しますが、すべての人に時間というチャンスは等しく与えられています。

そこを忘れてはいけません。






しないといけないこと、などない

都会にいると「生き急いでいる人」を多数見かけますが、「○○しないといけない」とみなさん必死です。
就職しないといけない。
結婚しないといけない。
留学しないといけない。
家を買わないといけない。
昇進のためにTOEICをやらないといけない。
etc
しかし、冷静に考えて、人生で「しなければならない」ことなどほとんどありません。
都会の人の「しなければならない」ことのほとんどは元を正せば「やりたいからやってるだけ」ないしは「社会的な圧力にそのように思い込まされてるだけ」のものです。
「やらないと死ぬ」わけでもなく、ただ本来自分がやりたいだけです。
私の友人でも、何故か自分がやりたいからMBAなり、転職なりのために頑張っているはずなのに、それらがルーティーン化してくると、「外的に強制されてるように」勝手に感じている人がよくいます。
私はそういった友人に「やりたくないならやめたら? 自分が決めたんでしょう。それをやらなくても死ぬことはないよ」といつも言います。
婚活や就活で疲れてる方も、自分が選んでやりたくてやってることなんですから、そこで不平不満を言うのは間違いです。
「やらないといけない」ことなど人生ではほとんどありません。
「やらないといけない」と自分が(勝手に)思っている事」の大半は、元はと言えば自分がやりたくてやってるだけですから。

思考停止は悪いことか?

よく書籍やコラムなどで「それは思考停止である」という意見を見かけます。

実際私も「それはドグマである」、「それは思考停止である」といった言い方をします。

ここには「隠されている前提」があり、「考えないことや先入観に囚われている事は悪い」という前提です。

皆さんも「それは思考停止的な意見だね」と言われたら何か論破された気になるでしょう。

しかし、私から言わせると、「思考停止」それ自体は何も悪いことではありません。

ただ、思考停止していると困ることがあるからまずいだけで、「考えること」それ自体にアプリオリな価値があるわけではありません。

私は昔からちょっとひねくれていて、人と感性がずれていましたから、「あいつらは思考停止しているが、俺はよく自分の頭で考えている(∴だから自分はすばらしい人間だ)」と考えていましたが、これも結局(先程の投稿じゃありませんけど)「合理化」です。

自分を肯定したいからそのように考えている(考えたい)だけで、冷静に立ち止まって見ると、別に考えること自体にことさら価値があるわけではありません。

「生物としての人間」という観点から考えてみると、所詮我々ホモサピエンスの脳が肥大化しているのも「それが生存や遺伝子の伝達に必要だから」というシンプルな理由ゆえであり、別にそこに大した意味はありません。

例えばコウモリが夜でもよく目が見えたり、魚にエラが発達していたり、恐竜の爪が発達しているように、我々ホモサピエンスの脳が肥大化しているのも、所詮「生存のための手段」でしかありません。

ですから、別に社会常識を疑うことなく信じたり、あらゆる前提を疑って考えることそれ自体に意味があるわけではありません。

私(に限らず、ある程度世の中の前提を疑うような思考が得意な人)がそのようなことが得意だから自己肯定バイアス(「自分は価値ある人間だと思いたい」というバイアス)のために、「それはドグマだ」と言いたいだけで、所詮それもマウンティングでしかありません。

「頭がいい」ことが普遍的に価値があることかのように我々は思いがちですが、頭が良かったり考えられたりすること自体は、生物レベルで考えると、孔雀の羽が美しかったり、ライオンが速かったり、鳥が空を飛べるのと大して差はありません。

「思考停止」しても何の問題もなく生き、遺伝子の伝達ができるのであれば、思考停止を非難する必要などないでしょう。

「それは思考停止だね」という発言自体が壮大な思考停止である

という事実について我々は認識するべきでしょう。

人間は幸福になるようにできているのか

心理学で、「防衛機制」とか「合理化」という言葉があります。

要は、自分の心が辛くないように、何かしら「屁理屈」をつける、ということです。

たとえば、海外留学がしたいけどできなかった人が「日本で十分英語も学べるし、外人もいるから留学なんていらないよね」と言ってみたり。

学がない成功者が「仕事と勉強は別だしな」と意気揚々と語ったり。

これらは心理学で言う「合理化」です。

本当は欲しいものがあるのに手に入らないから「負け惜しみ」を言っているわけです。

「酸っぱい葡萄」ですね。

世の中の言説のほとんどは「負け惜しみ」である、というのが私の持論です。

嫉妬と負け惜しみが社会の言説を作っています。

しかし、口に出すにはダサいですが、私だって自分の中で無意識に「合理化」的な発想をしているはずです。

なぜ「合理化」をするのかと言えば、「事実を直視するのが辛い」からでしょう。

なんとか屁理屈でも自分を納得させるしかないのです。

具体例が長くなりましたが、まとめると、合理化は「幸せになるために心が働いている」現象と言えそうです。

つまる、合理化することにより幸せに(裏から言えば不幸じゃないように)生きられるように心は働くわけです。

人間の心や脳とはうまくできています。

しかし、です。

心はまったく逆の反応をする時もあります。

それが「慣れ」です。

私はしばしばこのブログでも言っていますが、人はどんな状態にも慣れる生き物です。

10年前と今で、私も物質的には30倍くらい豊かになりましたが、では、10年前より今のほうが毎日幸せで仕方ないか、と言えばそんなことはありません。

1.3倍程度マシにはなりましたが、所詮物質的な豊かさには慣れるものです。

昔行けなかったレストランも住めなかった住まいもそれが「デフォルト」化するともはやそれは日常でしかありません。

昔中国で餃子は「ごちそう」でした。

しかし、我々の中に「餃子が食べられて幸せ」と感じる人がどれだけいるでしょうか❓

それは結局、餃子がデフォルト化してしまうからです。

スマホも10年前の発売当時は、「おー、すげー。直接画面にタッチできるよ!(◎_◎;)」と感動していましたが、まさか今「画面に直接タッチできる感動」を日々味わっていう人はいないでしょう。

それもスマホが「デフォルト化」してしまったからです。

「感動」や「幸福」は「差異」と「期待値からの乖離」から生まれます。

ですから、物質的な幸福には限度がある、と私は思っています。

これは言い換えると、「人は幸せにはなれないようにできている」と言えなくもありません。

ここで先ほどの「合理化」と「デフォルト化」の矛盾というか齟齬が私は気になるわけです。

人は幸せになれないようにできているのか❓

幸せになれるようにできているのか❓

(もちろん、これは脳や心のレベルの話です。個々人のレベルでは幸福を模索するべきでしょうから)

これが私の疑問です。

私の仮説ですが、生物として幸福すぎる状態も不幸過ぎる状態もまずいんでしょうね。

遺伝子を伝えるために飢餓状態や少し足りていない状態の方が、頑張るでしょうから、あまり満足できないように人の心は働く必要があり、その一方であんまり不幸すぎて自殺でもしちゃあ困る、というように「創造主」に我々はうまく設計されているのかもしれませんねえ。
























エピクロスの間違いについて

エピクロスという昔の哲学者がこんなことを言ってました。

「死を恐れる必要などない、なぜならば、我々が生きている間は死は訪れないから。そして死んでしまったら我々には感覚がないから、死を体験することはできないから。」

これはなかなかもっともらしい意見です。

たしかに、生きてる間には死ぬことはなく、死んでしまったら意識はないわけですから、エピクロスの言っていることは理解できます。

しかし、エピクロスは「人間の時間意識」についての考察が少し甘いと思います。

人間は、過去と現在、現在と未来を観念の世界でつなげます。

われわれは「今」を生きてるだけではなく、「今」と同時に「未来」も同時に生きています。

例えば、
1年後に結婚する
1年後に試験に合格する
1年後にニューヨークに赴任する
etc

こういったことを思い浮かべている時、われわれは今を生きながら未来も生きています。

人間は想像の世界で過去も未来も生きられる存在です。

ですから、「死」を経験することはできなくても、死ぬことを想像することはできますし、「自分が世界から消えてしまう」ことをありありとイメージできます。

そのように考えたときに、エピクロスが言うような「死んだら死を経験できないから、死を恐れる必要はない」という言説は、あまりにも人間の時間意識や存在について理解が浅過ぎると思います。

人間は、死を知りながら生きる唯一の動物だと言われています。

人間は生きている間にも死を観念することができ、それがまさに「人間の生き方」なのでしょう。

死について、でした。