Ojisanが哲学する

哲学大好きなojisanが偉そうに人間や社会を語ります

人間は幸福になるようにできているのか

心理学で、「防衛機制」とか「合理化」という言葉があります。

要は、自分の心が辛くないように、何かしら「屁理屈」をつける、ということです。

たとえば、海外留学がしたいけどできなかった人が「日本で十分英語も学べるし、外人もいるから留学なんていらないよね」と言ってみたり。

学がない成功者が「仕事と勉強は別だしな」と意気揚々と語ったり。

これらは心理学で言う「合理化」です。

本当は欲しいものがあるのに手に入らないから「負け惜しみ」を言っているわけです。

「酸っぱい葡萄」ですね。

世の中の言説のほとんどは「負け惜しみ」である、というのが私の持論です。

嫉妬と負け惜しみが社会の言説を作っています。

しかし、口に出すにはダサいですが、私だって自分の中で無意識に「合理化」的な発想をしているはずです。

なぜ「合理化」をするのかと言えば、「事実を直視するのが辛い」からでしょう。

なんとか屁理屈でも自分を納得させるしかないのです。

具体例が長くなりましたが、まとめると、合理化は「幸せになるために心が働いている」現象と言えそうです。

つまる、合理化することにより幸せに(裏から言えば不幸じゃないように)生きられるように心は働くわけです。

人間の心や脳とはうまくできています。

しかし、です。

心はまったく逆の反応をする時もあります。

それが「慣れ」です。

私はしばしばこのブログでも言っていますが、人はどんな状態にも慣れる生き物です。

10年前と今で、私も物質的には30倍くらい豊かになりましたが、では、10年前より今のほうが毎日幸せで仕方ないか、と言えばそんなことはありません。

1.3倍程度マシにはなりましたが、所詮物質的な豊かさには慣れるものです。

昔行けなかったレストランも住めなかった住まいもそれが「デフォルト」化するともはやそれは日常でしかありません。

昔中国で餃子は「ごちそう」でした。

しかし、我々の中に「餃子が食べられて幸せ」と感じる人がどれだけいるでしょうか❓

それは結局、餃子がデフォルト化してしまうからです。

スマホも10年前の発売当時は、「おー、すげー。直接画面にタッチできるよ!(◎_◎;)」と感動していましたが、まさか今「画面に直接タッチできる感動」を日々味わっていう人はいないでしょう。

それもスマホが「デフォルト化」してしまったからです。

「感動」や「幸福」は「差異」と「期待値からの乖離」から生まれます。

ですから、物質的な幸福には限度がある、と私は思っています。

これは言い換えると、「人は幸せにはなれないようにできている」と言えなくもありません。

ここで先ほどの「合理化」と「デフォルト化」の矛盾というか齟齬が私は気になるわけです。

人は幸せになれないようにできているのか❓

幸せになれるようにできているのか❓

(もちろん、これは脳や心のレベルの話です。個々人のレベルでは幸福を模索するべきでしょうから)

これが私の疑問です。

私の仮説ですが、生物として幸福すぎる状態も不幸過ぎる状態もまずいんでしょうね。

遺伝子を伝えるために飢餓状態や少し足りていない状態の方が、頑張るでしょうから、あまり満足できないように人の心は働く必要があり、その一方であんまり不幸すぎて自殺でもしちゃあ困る、というように「創造主」に我々はうまく設計されているのかもしれませんねえ。