Ojisanが哲学する

哲学大好きなojisanが偉そうに人間や社会を語ります

自分なんていないのではないか

「自分とは何か」なんて青年哲学みたいなことをついつい考えてしまう私です。

心理学で「同一視」という専門用語があります。

要は、「自分と同じ属性の人が成し遂げたことに対して自分のように喜ぶこと」が同一視です。

ミスターとは何も関係なくても、千葉県出身というだけでミスターを妙に誇りに思ったり。

養老孟司と同じ栄光学園出身であることをなぜか誇りに思ったり。

山中さんや赤崎さんがノーベル賞をとってなぜか誇らしくなる京大卒もいるでしょう。

外国人に「ヤンキースのタナカはいいな」と言われたら日本人というだけでちょっと嬉しくなってしまいます。

旦那の手柄を自分の手柄のように考える奥様もいますよね。
こういった人に対して「自分じゃないじゃん」という反論がよくあります。

たしかに、私も「虎の威を借る狐」的な女なんかをdisっていますが、本当に哲学的に考えていくと、「自分の力じゃない」という意見の方が私は浅いと思っています。

なぜならば、「私」なんて一枚岩の確固たるものではないからです。

能力や所得のある親のもとに生まれたら、遺伝と環境の相乗効果で社会的に有利なポジションにつくことができますが、それは端的に「親の力」ではないでしょうか?

たまたま素晴らしい先生に出会えた。

たまたま素晴らしい友人に巡り会えた。

人生などこのような偶然に満ち溢れています。

「自分」なんて他者との関わりあいで形作られる以上、そもそも「他者」と「自分」などきれいに分けることなどできません。

ですから、「それは自分ではない」なんて冷静に考えてみるとかなり浅い表現である事は自明でしょう。
「自分」なんて玉ねぎの皮ように存在しているようで存在していないものですから。

cf 色即是空、諸法無我諸行無常コミュニタリアニズム