Ojisanが哲学する

代官山在住のojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。京都大学法学部在学中に大手予備校で予備校講師をしていましたから、教育に興味があります。

猫に小判

最近人と話していて「猫に小判」という言葉を久しぶりに聞きましたが、このことわざは深く解釈すると、哲学の認識論や科学哲学にも通ずる世界の真理を表してるように思います。

要は、「猫には小判の価値などわからない」ということですが、そもそも自然界に「価値」や「意味」は存在していません。

人間社会で慌ただしく働いていると、株式上場なり、役員への出世なり、タワーマンションなり、ポルシェなり、美人なり、といった「人間界の価値」に翻弄されますが、そもそも自然界には「価値」や「善」なるものは存在しません。

金は自然界では単なるAuであり、銀はAgであり、それが特にSやClより価値が高いという事はありません。

あくまでも金に価値があるのは人間が慣習的にそのように考えているからであり、所詮「人間界の決め事」でしかなく、自然界のレベルではそもそも「価値」など存在しません。

我々が大好きなお金も自然界のレベルで言えば「紙」や「パソコン上の数字」にしかすぎません。

それでもお金に価値があるのは、我々みんながその存在を信じているからです。

『裸の王様』じゃありませんが、「共同幻想」というのはみんなが信じている限りにおいて実在しているのと変わりません。(cf現象学

荘子が「カラスからしてみたら美人もブスもない」と言っていますが、まさにその通りで、現在美人とされている顔も所詮人間界の決め事です。

自然科学のレベルで言えば、われわれはどれだけ偉い人間でもそうじゃない人間でも「タンパク質の塊」でしかありません。

「猫に小判」と言うと、「猫には価値があるものがわからない」と解釈されますが、そもそも本来自然界には価値なるものはないわけですから、むしろ人間のように、言語により自ら作り出した価値という共同幻想に翻弄されて苦しんでる生物の方が猫からすると滑稽かもしれません。(言語がない猫にこのような高度な思考は実際は不可能ですが、一つの比喩表現です。)

人間界の価値を相対化することが、煩悩から解き放たれ世界を俯瞰するためのコツのような気がします。

完全に俗世間の価値や煩悩からフリーになるのは難しいですが、一つの思考実験としてまずは相対化することが大切です。