Ojisanが哲学する

哲学大好きなojisanが偉そうに人間や社会を語ります

「人を幸せにする」という欺瞞

私は昔から、「仕事で人を幸せにしたい」といった言説をどうしてもうがった目で見てしまいます。

 

たしかに、発展途上国で稲作をしたり、食品メーカーなどに従事したり、衣服を作っていたりすれば、端的に「人の幸福に寄与している」と言えます。

 

しかし、我々のように先進国の住民は、餓死したり着るものがなかったり、ということはまずないので、必然的に「他者との相対評価による幸福」が幸福の源泉です。

 

もちろん「家族と一緒に過ごして幸せ」とか、「趣味の将棋が楽しい」といった素朴である程度絶対的な幸せもありますが、我々の幸福の大半は「他者との相対評価による幸福」です。

 

これはほとんどの人が意識していない、ないしは意識したくない不都合な真実ですが、先進国の人間の幸福は他人の不幸によって成り立っています。

 

私は昔予備校でアルバイトをしていましたが、予備校や受験産業というビジネスは、「大量に落ちる不幸な人間」がいるからこそ少数の合格者が幸福になれる仕組みになっています。

 

「生徒を全員受からせたい」などと息巻いている先生もいましたが、ひねくれた見方をすると「自分が教えた位で全員受かるほど簡単な試験」ならば、皮肉なことに受験産業など存在していないんです。

 

運転免許の予備校が存在しないように。

 

大量の不幸な人間が生まれ、ごく一部の人間しか合格者になれないからこそ、受験産業というビジネスが生まれるわけです。

 

誰もが「自分だけ勝って優越感を感じたい」からこそ、受験産業が生まれます。

 

そして残念ながら、認めたくない人は多いと思いますが、先進国のビジネスはほとんどが予備校のように「不幸な人間との相対評価による幸せ」を提供するビジネスです。

 

例えば婚活業者。

 

高収入な男性とのマッチングを謳う業者は多いですが、女性全員が高収入な男性と結婚できたら、そもそもこのビジネスは存在していません。

 

女性も、周りのほとんどの人ができない「高所得な男性との結婚」ができるからこそ優越感を感じられて幸せなのです。

 

ほとんどの人が不幸だからこそ自分は相対的に幸福になれるわけです。

 

そもそも「高所得」という概念自体が相対的なものです。

 

化粧品もファッションも、社会人のMBAもタワーマンションもロレックスもすべて「他人ができないけれども自分だけができるから優越感を感じられて幸福」なわけです。

 

世の中のほとんどの人が代官山のタワーマンションの高層階に住めないからこそ、私はそれができてちょっといい気分なわけで、埼玉のアパートに住めるように誰もが港区と渋谷区のタワーマンションに住めてしまったら、私の優越感や幸福感は減退してしまいます。

 

ロレックスが300円だったら何の価値もないわけです。

 

みんながロレックスを手に入れられないからこそ自分だけ手に入れて幸せなのです。

 

誰もが有名総合商社に行けたら意味がないわけです。

 

自分だけがおいしいポジションにありつけるからこそ楽しいわけです。

 

 MBAだって、難しいからこそ、それを成し遂げられない不幸な人がいるからこそ、「自分だけ取得できて楽しい」のです。

 

これは誰もが認めたくない不都合な真実でしょうが、都会の幸福は「自分以外の人間の不幸」によって生まれています。

 

「自分とお客さん」というミクロな視点で見たら、「人を幸福にしている気分」を味わえるかもしれませんが、残念ながらマクロに社会を分析すると、都会の幸福のほとんどはその他大勢の人間の不幸によって支えられているという不都合な真実に気づきます。

 

結局のところ、我々の社会は生物レベルで言えば高度になりすぎたんでしょう。

 

もはやここまで衣食住に困らなくなると、最終的には「他者との差異化による承認」による幸福しか我々には残されていません。

 

これは誰もが認めたくない話ですが、絶対に反論できない不都合な真実だと私は信じています。