Ojisanが哲学する

京大在学中に英語講師をしていたojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。趣味は英語で英検1級です。

能力は認識されてこそ能力になる

私がこのブログで何度も申し上げている事ですが、特定の人が優秀かどうか、能力があるかどうか、というのは多分に「たまたま」です。

例えば現代社会において、「お金を稼ぐ力がある」のと「料理における味覚が優れている」のとでは、圧倒的に前者に価値があるとされます。

IQが高いのと足が速いのでは、圧倒的に前者に価値があるとされています。

しかし、これもそもそも時代の趨勢というものです。

「たまたま時代の価値基準がそうなっているから」としか言いようがありません。

また、本当の「そもそも論」ですが、「能力」というのは、測定されて他者から評価されてこそ「能力」と認知されます。

カントあたりの認識論に近い発想かもしれませんが、「優れた能力」というものがまず存在して、それを人が認識してるというのは間違いです。

そうではなく、「能力として認識されているからこそ、それは能力として存在している」のです。

例えば、上の例で言えば、IQが高いとか足が速いというのは一般的に「測定されうる能力」ですが、世の中には測定されないけれども実は価値がある能力がたくさんあります。

「料理の盛り付けがすごく上手」とか「飲食店の店員としてすごく気が利く」とか定量的ではない能力は測定されにくいものですから、
そもそもそれが「能力」であるという認識すらもたれにくい
ものです。

身体測定においても、身長や体重、座高は測定されますが、「肩から手の先までの長さ」や「地面から肩までの高さ」は測定されません。

しかし、何が測定されて何が測定されないかというのは極めて恣意的です。

身体測定と似た話ですが、男性器についてよく長さとか硬さとかそういったくだらない話をします。

私の息子の一番のポイントは、「きれいなキノコ型」(カリ高)というところなのですが、残念ながらそれは測定しにくい能力なので、あまり評価されません。

もっと言えば、普通は長さが何センチという話になりますが、私のように長さより太さに自信がある人間から見るとなんとも面白くない基準です。

こんなくだらない具体例はともかくとして、私が申し上げたいのは、
人間の能力というのは、アプリオリに存在してるものではなく、あくまでも人間や社会が評価してこそ顕在化する
ものだ、ということです。

大和時代には「古墳の大きさ」が価値であり、奈良時代には「立派な寺が建てられるか」が価値であり、それが2015年前後ですと「港区のタワーマンションの高層階に住むこと」が小金持ちの間の価値です。

「価値」というのは自然界に存在してるものではなく、あくまでも人間がそれに価値を見出してこそ存在しうるものです。

同様に「能力」というのは他者から評価されてこそ「能力」として顕在化するわけで、今たまたま社会から評価されている人間も「自分が普遍的にえらい人間だ」などと考えたら本当におかしな話です。

自分が持っている長所がたまたま社会から評価されるかどうか、という運に評価はゆだねられているわけですから。

私は毛深いので、「毛が薄い人間ほど偉い人間」という世界においては本当に底辺の部類でしょうし、逆に「手マンがうまい人間ほど偉い人間」という世界においてはおそらく王様でしょう。笑

あくまでも社会から評価されるかどうかというのは、自分のストロングポイントが評価されるかどうかが全てなわけですから。

このことは形を変えて、繰り返し述べていきたいと思いますが、社会的な強者の方は「自分の運の良さ」について自覚をするべきでしょう。