Ojisanが哲学する

代官山在住のojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。京都大学法学部在学中に大手予備校で予備校講師をしていましたから、教育に興味があります。

生きたくても生きられない人も、、

よく日本などの先進国で自殺したような人に対して「世界には生きたくても生きられない人もいるのに・・ 自分で命をたつなんて信じられない」といった趣旨の発言をする人もいます。

私もこれと似たような文脈で「今の日本で生きてる時点で幸せである。地理的に見ても歴史的に見ても、ここまで人が餓死しない時点で僥倖だと思わなければならない」といったことを言ったりします。

自分で言っといて言うのもなんですが、この発言は半分正しく半分間違っています。笑

ですから、私がこういったことを言うときには、言外の意図を汲み取っていただかないと(って偉そうですみませんが)なかなか真意は伝わりません。

私はこれまでも様々な「比較」について述べてきましたが、比較には様々なレベルがあります。

平安時代や現代のアフリカとの比較。

隣の鈴木さんとの比較。

比較には様々なレベルがあるわけです。

そして、私はあえて極端に「今の日本に生きてる時点で、奈良時代の農民やエチオピアの子供と比べたら幸せだろう」と言ったりしますが、これも「自分ではどれだけ辛いと思っていても本当に最悪じゃないんだよ」という趣旨で言ってるわけで、当たり前ですが、人間は通常、同時代に生きている同じ国の人間や自分と身近な他者と比較をしますから、日本で生きていても不幸せだったり欲求不満を感じること自体は全くおかしなことではありません。

そこで、「いくら日本の『子どもの貧困』と言っても、エチオピアの子供と比べたら食べるものにも困ってないし十分だろう」というのはちょっと極論すぎるわけです。

また、日本で貧しい生活をしている子供に対してそれを言うのも間違いだと思います。

「お風呂に入れなくたって死ぬわけじゃないだろう」と、少なくとも日本でお風呂に入れない子供に対して発言するのは明らかに間違っています。

やはり日本に生まれて日本で暮らしてる以上、基本的な基準は現代の日本ですから。

同じように、「毎日満員電車に揺られ、妻とはセックスレスで、大学時代の友人にはマウンティングをされ、会社ではセクハラおじさんだと若い女子社員に馬鹿にされ、恥辱を舐める生活をしている男性」に対して「いやいや、中国の春秋戦国時代を考えてみなよ。君は着るものもあるし、家もあるし、食べるものがないわけじゃないだろう。」と慰めたところで慰めになるはずがありません。

しかし、私もなかなかアンビバレントですが、こういった極端なアドバイスが全く無意味でもないと思っています。

たしかに、現代の日本にいたら、「贅沢な悩み」が山ほどありますし、やはり幸福度はある程度相対的なものですから、「そこそこの人間ならではの悩み」は日本のような恵まれた国に生きている人であっても尽きることはないでしょう。

しかし、歴史的に地理的にちょっと視野を広げてみると、やはり「自分は最悪ではない」という当たり前の事にも気づきます。

また、「健康」というのも当たり前のようで当たり前ではありません。

半身不随であったり癌で余命半年の方と比べたら、やはり「生きているだけで丸儲け」という当たり前の幸福について感じるべきでしょう。

ですから、なんとも歯切れが悪く矛盾してるようですが、「日本に生きている時点で幸せじゃないか、自殺なんてするなよ」といったアドバイスは断定的に言い過ぎると間違いですが、意図的に視野を広げる意味で発言するにはやはり間違っていないと思うのです。

ちょうどカメラのズームのように、比較の対象を近くにも遠くにも持つと、「幸福感のバランス」が維持できるのではないでしょうか??