Ojisanが哲学する

代官山在住のojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。京都大学法学部在学中に大手予備校で予備校講師をしていましたから、教育に興味があります。

ノーベル賞と女性について

ノーベル賞受賞者に女性が少ないのは有名な話です。

ノーベル賞受賞者に限らず、理科系には女性が少ないとか、管理職には女性が少ないとか色々と言われています。

それに対するステレオタイプな反応として、

「やっぱり女性は男性より能力が低いからこれは仕方ない結果だ」
「いや、これはジェンダー的な問題で、社会が女性をそのような存在として扱っているから女性のセルフイメージもそのようになる。決して女性が理系に向いてないという事ではない」

といった反応があります。

しかし、私から言わせるとどっちもいまいち滑ってるという感じです。

誤解を恐れずに言えば、やはり脳の構造といったレベルで平均的には女性の方が男性より物理や数学に適してないのは否定できないでしょう。

しかし、「だから女性は男性より劣っている」などと言いたいわけではありません。

この話は何度もしてることですが、そもそも人間社会における優劣というのは、「基準次第」なわけです。

漠然と「優れている人間」が存在してるわけではなくて、特定の基準において優れている人間が存在してるわけです。

例えば、「野球」という基準では私よりイチローの方が遥かに上でしょう。

しかし、おそらく私の方が処理能力やIQで言ったら上だと思います。

ただ、それだけの話です。

同じように、そもそも現代社会で理系センスやIQが過剰なまでに評価されていることが前提としてあるわけですね。

いま私たちが生きている社会は、難しく言えば「西欧近代」の延長線上にあります。

西欧近代は、感情より理性が、女性より男性が、アジアより西欧が「上」とされます。

しかし、そもそもこの基準が極めて恣意的なわけです。

例えば我々が漠然と「美しい顔」を想起するときに、やはり目が大きくて鼻が高いような顔をイメージするでしょう。

しかし、これも言ってみたら、西欧的な価値観が前提にあるわけです。

別に我々が自然界のレベルで西洋人よりも不細工というわけではないのですが(というか、自然界に「美しさ」など存在しないのでしょう)、たまたま基準が西欧よりだから、我々が不利になるわけです。

男性と女性の理系の能力に関しても同じことが言えるでしょう。

そもそも物理や数学などは男が得意な領域なわけです。

そしてその得意な領域で勝負したら男性が女性に勝つのは当たり前です。

この真逆のパタンを大げさに考えてみたらわかりますが、「生涯に産める子供の数で人間の価値が決まる」世界ならば男性は全員落伍者です。

どんな基準も実は客観的ではありません。

例えば「性差別なんてしてないよ」と言いながら「身長170センチ以上」という基準を設けたら圧倒的に男性が有利になります。

「子供が産めるかどうか」といったあえて極端な例を出すとそれがいかに馬鹿げているかわかりますが、「一見公平」に見えて全然公平じゃない戦いというのはよくあります。

例えば、東京の民間就職などでは「学歴フィルター」がありますが、これも結局のところ、今の社会で力を握ってる人間が学歴が高いので、自分たちが有利になるようにこのような基準を制度化してさも客観的なように見せかけて差別的な構造を作り出せるわけです。

「努力したら誰だって勉強なんてできるんだから勉強しなかった奴が悪い」

こういった言い分は客観的なようですけど全然客観的ではありません。

私はかなり相対化してる方なのでマシですが、やはり高学歴なおじさんは無意識のレベルで、このように考えている人は多いでしょう。

しかし、そもそもIQや記憶力といった能力が圧倒的に求められる受験学力が普遍的な価値を持ってるわけではありません。

ただ、今の社会がそれを求めているというだけですから。

しかし、それでもそれによって自分が有利になる人間はその基準を崩す事は絶対にしません。

それは自分のアイデンティティーを崩壊させることになるからです。

理系の分野で女性が男性より不利なのは女性が男性より無能だからではなく、「たまたま不利な基準で戦わされてる」からです。

子供の話もそうですが、例えばこれが「外国語の発音」なんかで男性と女性が競ったらどうやっても女性の方が上に行きますよね。

でも外国語の発音なんかは「大して重要ではない事」とされるわけです。

今の社会において、特定の基準によって有利になる人間がその基準の正当性を堅持しようとし続ける限り、「無意識の差別の構造」は永遠になくなりません。

私の主張に近いことを、フーコーやレヴィストロースあたりが言っているので、興味がある人はウィキペディアあたりで調べてみてください。