Ojisanが哲学する

代官山在住のojisanが、人間や社会について偉そうに論じています。京都大学法学部在学中に大手予備校で予備校講師をしていましたから、教育に興味があります。

教育論はなぜ難しいか1

さきほどのくだらないネタに比べたらかなり真面目な話ですが。

このブログを見ていらっしゃる方にも、子育てをしてる親御さんが多いと思いますが、子育てに関する「どっちがいい」系の議論は非常に難しい。

小学校受験か中学受験か
そもそも公立か私立か
塾に行くべきか否か
留学か国内か

みもふたもないですが、こういった教育にまつわる議論は絶対に答えがありません。

大きな理由として、子供が仮に就学前や小学生位だとすると、子供が社会に出てバリバリ働く時というのがあまりにも現在とかけ離れているからです。

いま子供が7歳位だとして、その子供が社会の中軸として活躍するであろう35〜50歳くらいというのは、2050年くらいなわけです。

誰が2050年の社会カーストや世界経済を予測できるでしょうか?

それは1990年にスマートフォンアフィリエイトなんてものが存在していたり、そもそもインターネットがここまで普及するということを誰も予想できなかったように、2050年にはあらゆる社会の前提が変わっているでしょう。

1990年と言えば、内田有紀とか田原俊彦とかポケベルの時代ですよ?笑

ももクロ大谷翔平も携帯電話もパソコンもJリーグも生まれていない時代です。

日本長期信用銀行が潰れたり、東芝がここまで凋落したり、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行がここまでステータスを上げるなど誰も予想していなかったと思います。

また、1980年ぐらいに大学生だった人は、一流の省庁や大企業に行くのが勝ち組だと信じて疑っていなかったと思いますが、そんな人がエリートコースに進み、いま突然リストラにあったりするわけです。

教育が難しいのはここです。

教育を授けられているのは「今」ですが、少なくても仕事でそれが生かされるのは30年後。

つまり、どうやっても「タイムラグ」ができるわけです。

ですから、私としてはできるだけ普遍性が高い能力を子供に身に付けさせることを心がけるべきだと思っていますが、その「普遍性」すら本当に普遍的なのかどうかも怪しいです。

というのも、平安時代や戦国時代と今を比べたときに「時代が求める能力」は全然異なるからです。

これから先の変化は「平安時代と今」くらい大きくドラスティックな変化になるでしょう。

われわれは、学力が高かったり処理能力が高かったりする人を「頭がいい」と称しますし、頭が良いことがこの社会で価値があることだと無意識に信じています。

しかし、戦国時代の戦う能力が現在一般人としてほぼ不要なように、頭が良いことの価値が今後全くなくなるかもしれません。

というのは、今後の汎用人工知能のレベルというのは我々が想像しているよりも凄まじいものになるからです。

そうなると、文章能力とチンコの太さだけが取り柄の私は、AV男優かホームレスになるしかないかもしれません。

もちろん本当に「頭脳仕事」が完全になくなるとは思いません。

しかし、我々が今「頭脳仕事」だと思っているもののかなりの程度は人工知能に置き換えられていくでしょう。

そういった時代において、頭が良いことの価値は、「最先端の研究者」や「人工知能を作る人間」以外にとって全く意味がなくなってくるかもしれません。

上位0.001%レベルの頭の良い人だけが存在価値があるという意味です。

例えば、現代社会で「スポーツができる事」や「足が速いこと」は、スポーツ選手以外にとってほとんどどうでもいい能力です。

丸の内のサラリーマンが、「高校時代100メートル何秒でしたか?」なんて聞かないでしょう。

100mが10.9秒でも14.2秒でも同じ位意味がありません。

しかし我々も笑っていられません。

ホワイトカラーの人間は今のところ幸い、偏差値70と60の「差」は能力の「差」として認知されていますし、所得に反映されます。

しかし、あらゆることが人工知能に置き換えられていくと、上位0.001%くらいの能力の人間だけが人工知能を研究するような立場として価値がある存在だと認識されて、偏差値70と55くらいの「差」が100メートル走の上の例えと同じように無価値化するかもしれません。

つまり、暗記力や処理能力、論理思考が偏差値70のレベルでできても偏差値50のレベルでできても、そんな事はほんとにどうでもよくなるかもしれません。

笑っている人がいるかもしれませんが、100メートル走の話や平安時代の和歌の話を考えたら、こういった地獄絵図が絶対に未来に起きないとは限りませんし、むしろ確率論で言えば、こっちの可能性の方が高いでしょう。

それなのに今の学校教育は、価値観が完全に昭和なのです。

ただ、小学校の先生や文部科学省を責めるわけにもいきません。

なぜならば、「いま」(2017年)という「点」で見たときに、今のところは処理能力や記憶能力がそれなりに意味を持っているからです。

これはどんな時代や社会であろうと直面する問題ですが、上で述べたように、子供が教育を受けているスパンと実際に彼らが社会で活躍するスパンがずれてるわけですから、誰も未来を予想することはできない以上、みもふたもない言い方をすれば「仕方ない話」です。

本当に身もふたもなくて何か積極的な解決策があるわけではないのですが、子供の教育の難しさというのはこういった時間軸のタイムラグが根底にあるのではないでしょうか?